2021/12/12
深海
生きています。東京にいて、二回目の転職をして、今は書籍の編集者をしている。楽しいことも楽しくないこともある。変わることも変わらないこともある。ずっと付き合い続けている人も、出会って別れて他人になった人もいる。自分の文章に対する愛情は薄れた。それでもまだどこかでなにかを書くことを続けている。
感染症が流行して、ライブに行く頻度が著しく減った。ライブに行っていた時間はゲームをする時間に置き換わって、肉体的な音楽からはやや遠ざかっている。わたしが遠出する機会はおおむねライブに行く機会のなかに含まれるので、旅行もまったくしていない。
でも夏に京都に行った。
早朝の空いている新幹線に乗って、目的地にまっすぐ向かって、そして目的を達成したら速やかに帰る。
京都駅に着いて、市営地下鉄に乗り換えて、烏丸御池駅で降りる。階段をのぼって少し歩けば、古い小学校を改修して作られた建築物がある。京都国際マンガミュージアムでは、楠本まきの展覧会が開かれている。
スマートフォンの予約画面を受付に提示して、入場して一階の特集棚を見る。ほとんど所有しているものだけれど、手に取ってじっくりと眺める。それからゆっくりと階段をのぼって、展覧会を見る。
古い木造の床は歩くとミシリ、ミシリとぎこちない音を立てる。
歩いては立ち止まって、立ち止まっては歩いて、一周してからもう一周して、階段を下りて物販でお金を払う。それから外に出て暑さにうんざりして、併設の前田珈琲に入る。展覧会のイメージメニューを頼んで、ソファに腰を下ろして、購入したばかりの本を開く。
『線と言葉 楠本まきの仕事』という本は、これまで楠本さんの作品にかかわってきたさまざまな人たちの論考や対談などによって構成される一冊で、緻密で誠実な仕事の一つひとつに感嘆のため息が漏れる。展示と思い返しながら読むとより深く心に残る。
そしてこの本の冒頭には、三角みづ紀の寄稿がある。
タイトルは「僕は君じゃないし君は僕じゃない」。
楠本まきの線と言葉も、三角みづ紀の歌と言葉も、わたしの深いところに錨を下ろしていてまるで動きそうにもない。爪は海底の泥の深くに食いこんで痛い、でも痛いからといって抜きたいとは思わない。三角さんの文章は見開き二ページ、それを繰り返し繰り返し何度も読んだ。噛み締めるように文字をゆっくりと目で追う。追って認識した文字の形状は頭の中で抽象的な概念になって、またわたしの奥底に沈む。海底の泥の一つになる。
わたしはあなたじゃないしあなたはわたしじゃない。なにをどこで書いていても、いつも結局はそのことだけを書いている。深海は人がいなくてさみしい。それでも深く根を下ろした無数の錨を頼りに、まだ知らないどこかを探してあてもなくさまよっている。いつまで経っても変わらないわたしは妄執の幽霊で、でも幽霊が生き延びるための深海が今もずっと変わらずにある。
わかりあえない人だけが無数に存在する。誰のことを理解することもできない。それでもなにかを足がかりに生温い汚泥の上を歩く。ときおりすれ違う人にキスをしたり、首を絞めたりする。
わたしたちはみな孤独な亡霊だ。それでもときどき、本当にときどき、ずっと愛している美しいものが今もまだ変わらず美しく輝いたまま目の前を横切ったりする。その残滓に薄灰色の手を伸ばす。すり抜けてゆくそれらを見送る。
生きていることがいいことだとは思わない。生まれてきてよかったとは未だに思えない。わたしは今なお無様で卑しい獣のままだ。それでも奇跡的な一瞬、その一瞬に呼吸をするためだけに、この体と記憶は永らえているのだと思う。
なにひとつとして肯定できないけれど、また泥の上をゆっくりと亀の歩みで進む。わたしではないあなたが零すひかりに涙を流して、あなたがわたしでなくてよかったと思う。わたしがわたしとしてただひとり孤独であってよかったと、わたしではないあなたに出会うことができる主体であってよかったと、そのことだけをただ、いまでもただ幸福だと思う。