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深海

生きています。東京にいて、二回目の転職をして、今は書籍の編集者をしている。楽しいことも楽しくないこともある。変わることも変わらないこともある。ずっと付き合い続けている人も、出会って別れて他人になった人もいる。自分の文章に対する愛情は薄れた。それでもまだどこかでなにかを書くことを続けている。

感染症が流行して、ライブに行く頻度が著しく減った。ライブに行っていた時間はゲームをする時間に置き換わって、肉体的な音楽からはやや遠ざかっている。わたしが遠出する機会はおおむねライブに行く機会のなかに含まれるので、旅行もまったくしていない。
でも夏に京都に行った。
早朝の空いている新幹線に乗って、目的地にまっすぐ向かって、そして目的を達成したら速やかに帰る。
京都駅に着いて、市営地下鉄に乗り換えて、烏丸御池駅で降りる。階段をのぼって少し歩けば、古い小学校を改修して作られた建築物がある。京都国際マンガミュージアムでは、楠本まきの展覧会が開かれている。
スマートフォンの予約画面を受付に提示して、入場して一階の特集棚を見る。ほとんど所有しているものだけれど、手に取ってじっくりと眺める。それからゆっくりと階段をのぼって、展覧会を見る。
古い木造の床は歩くとミシリ、ミシリとぎこちない音を立てる。
歩いては立ち止まって、立ち止まっては歩いて、一周してからもう一周して、階段を下りて物販でお金を払う。それから外に出て暑さにうんざりして、併設の前田珈琲に入る。展覧会のイメージメニューを頼んで、ソファに腰を下ろして、購入したばかりの本を開く。

『線と言葉 楠本まきの仕事』という本は、これまで楠本さんの作品にかかわってきたさまざまな人たちの論考や対談などによって構成される一冊で、緻密で誠実な仕事の一つひとつに感嘆のため息が漏れる。展示と思い返しながら読むとより深く心に残る。
そしてこの本の冒頭には、三角みづ紀の寄稿がある。
タイトルは「僕は君じゃないし君は僕じゃない」。
楠本まきの線と言葉も、三角みづ紀の歌と言葉も、わたしの深いところに錨を下ろしていてまるで動きそうにもない。爪は海底の泥の深くに食いこんで痛い、でも痛いからといって抜きたいとは思わない。三角さんの文章は見開き二ページ、それを繰り返し繰り返し何度も読んだ。噛み締めるように文字をゆっくりと目で追う。追って認識した文字の形状は頭の中で抽象的な概念になって、またわたしの奥底に沈む。海底の泥の一つになる。

わたしはあなたじゃないしあなたはわたしじゃない。なにをどこで書いていても、いつも結局はそのことだけを書いている。深海は人がいなくてさみしい。それでも深く根を下ろした無数の錨を頼りに、まだ知らないどこかを探してあてもなくさまよっている。いつまで経っても変わらないわたしは妄執の幽霊で、でも幽霊が生き延びるための深海が今もずっと変わらずにある。
わかりあえない人だけが無数に存在する。誰のことを理解することもできない。それでもなにかを足がかりに生温い汚泥の上を歩く。ときおりすれ違う人にキスをしたり、首を絞めたりする。
わたしたちはみな孤独な亡霊だ。それでもときどき、本当にときどき、ずっと愛している美しいものが今もまだ変わらず美しく輝いたまま目の前を横切ったりする。その残滓に薄灰色の手を伸ばす。すり抜けてゆくそれらを見送る。
生きていることがいいことだとは思わない。生まれてきてよかったとは未だに思えない。わたしは今なお無様で卑しい獣のままだ。それでも奇跡的な一瞬、その一瞬に呼吸をするためだけに、この体と記憶は永らえているのだと思う。
なにひとつとして肯定できないけれど、また泥の上をゆっくりと亀の歩みで進む。わたしではないあなたが零すひかりに涙を流して、あなたがわたしでなくてよかったと思う。わたしがわたしとしてただひとり孤独であってよかったと、わたしではないあなたに出会うことができる主体であってよかったと、そのことだけをただ、いまでもただ幸福だと思う。

質量

気分の上下はある。億劫だがそれはある。ある前提で管理規則を組む。下降したときに使用するパッチを事前に組み立てておく。あなたはこういうときに気分が落ち込みます。その落ち込み方をタイプAとします。その場合は対応するこのパッチA'をあてれば社会生活を営める程度に気分を整えることができます。用法用量を守ってご使用ください。
記憶には質量がある。現実に存在する特定の物質に記憶が被さって固定されることがある。たとえば黄色で塗られた各駅停車の総武線の車両に。たとえば直線になりきれない角度で歪んで正面に続かない環状七号線のゆるいカーブに。たとえば都立大学駅からめぐろパーシモンホールへ向かう途中にある目黒通りを渡るところどころ白の剥げた横断歩道に。記憶はたびたび音楽の形をとり、そしてそれは質量を伴う。耳元で記憶の音楽が再生されるたびに視界が狭まる粘土の高いドロリとした色が混ざりすぎて混迷したはっきりとしない黒に塗られて。ぼとぼと落下してくる涙型のペイントがディスプレイに張り付いてその部分を塗り潰す。ある程度の透明度はあって景色が真っ黒になることはない。ただ汚い。汚染されている。そして質量がある。べとりと張り付いた記憶が音が視覚が意識が、質量がある、重たくて視線は下を向く。地を舐める。地を舐める。地を舐める。地を舐める。
泥の味がする。道路にキスする。犬の糞が落ちている。重力に引きずられた頭を誰かの軽快なステップが足蹴にしていく。めり込んだ頭をめり込ませたまま移動する。道路に醜いレールが生まれる。奴隷のように畜生のように四つ足で進んで地を舐めている。記憶には質量がある。
知らない場所へ行きたい、記憶のない場所へ行きたい、耳元で音楽が鳴らない場所へ行きたい。記憶を捨てたい。過去の蓄積を捨てたい。なかったことになりたい。なかったことにしてください。生きていてよかったと思える瞬間を探して亡者のようにさまよっている。ときどき出会えるそれに縋って浅ましく呼吸している。それでも根本的な解決にはつながらない。あなたを正しくしてあげることはできない。生きていてよかったと思えても、生まれてきてよかったと思えたことはただの一度もない。

という気分には、パッチA'をあてる。
社会生活を営める程度に気分を整えることができます。
用法用量を守ってご使用ください。

やさしい生活

欲望を撫でて育てている。この子は可愛い可愛いわたしのペットだ。ずっと一緒にいる。子どものころから。変わらずにずっと。ずっと一緒にいる。撫でて育てている。
苦しんで死にたくないだけの消極的選択によって実現している生は快楽へ快楽へ流れる。わたしはそれを肯定する。易き方へ流れる、それをとどまらせない。怠惰に落ちる、それを否定しない。子どものようなわがままと自己弁護を未だに繰り返して、苦しまないわたしが貪る快楽を保障してあげる。二年前のわたしが志したのは自宅に帰れる生活・賃貸を借りている意味がある生活・法によって定められている休日を適切に受け取ることのできる生活で、それを手に入れたわたしはもっと快適な状況を求めている。欲望を撫でて育てている。それを肯定する。
要はお金がほしい。前職はそこそこ給料がよくて貯金も同年代平均よりはあるよねという感じだったんだけど、今はかつかつだしじわじわ貯金が減っていってつらい。わたしは結婚なんか絶対にしないし子どもなんかほしくない、生を積極的に肯定できない人間が子どもを生産する理由がない、ので、法的に連帯する縁者というものをこの先獲得する可能性が著しく低い。自分が生きて死ぬ費用は自分で賄わなければならず、だから貯金を食いつぶすのは望ましくない。とりあえず会社で手当支給が確約されている資格をぽつぽつと取っており、この先も取り続けるし、それでもたいして給与額が上がるわけでもないから近いうちにもう一度転職するのも悪くないと思っている。お金は大切。
わりと一般的なヘイトの対象となりうる属性や思考の型を持っているので、インターネット上に転がっている言葉の上を歩き回るとたくさんの死ね死ね死ねという矢印をサクサク刺されている感覚に陥る。とくに感慨はなく、他者に自己がどう思われているかに興味はない。だから社会はこういった方面で排除の力を働かせる場合があるよな、程度の認識で、同時に、死ねというなら死んでも構わないのだができれば痛くないように消えさせてくれないかなあと願う。今のところその望みが叶うことはなさそうなので、せめて治らない病気になったらスイスに行きたいと願っている。これは前向きな思考だ。

最近考えているのは音楽のこと、メロディとリズムと展開がなければならない特定の音楽のことで、あまり言語化を試みなかった部分に触れてみたいという欲求がある。欲求は相変わらずあり、それを肯定しながら呼吸している。情熱が緩やかに死んでいく過程はいきものの一生と似ていて、意識的にひとつの情熱を殺したことは自己の一部を殺したことと等しいのだと思う。それでもまだ残っている有機的な部分を撫でて育てている。可愛い可愛いわたしのペットだ。いつか石のように冷たく硬く動かなくなってしまったら、ずっと憧れていた場所に連れていってあげたい。でも情熱と呼びうるあらゆる有機的でどろりとした塊がすべて冷え切って固まってしまったら、希死念慮すら消えてなくなってしまうのかもしれないな。それは社会への適合と呼べるのかもしれない。いつかわたしも健全に正常になれるのかもしれない。頭の片隅で、そんなことを考えている。生活は楽しい。生活は優しい。

句点以降の物語について

いつも情熱の死を恐れて恐れて恐れて怯え切っていたのにいざ情熱が死ぬと死んでしまった情熱を悼むほどの情熱もなくただただ空っぽ、内側になにひとつとして存在しない。空虚で快適だ。穏やかな無菌室だ。
目を閉じて指を離したその瞬間はその行為が悲しくて辛くて遣る瀬無いどうしようもない、苦しくて、何度も何度も繰り返し泣いた。でもぷつりと途絶えた。今はとても楽だ。とても楽。呼吸の途中で酸素が引っかかるような引きつるような、引きつった呼吸の先端がこめかみに連なって引き攣れるような、感覚を味わうことももうない。
あんな風になにかを好きになることはもうない。凭れ掛かっていたことを申し訳なく思った。いろんなものを落としてしまって中身が空っぽになってしまっても、死ぬまで生きなくてはならないのは微笑ましいことだ。あとはもう石を積んで余生をやり過ごす。自分の内側とだけ向き合って永遠に会話をしてあげる。空虚さが愛に似ていて可愛い。ヘリウムを持っているだけで安心する。
ほんの少しだけ軽蔑が残っていて、透明のマニキュアを塗った爪の先でときどきそれを転がしてあげる。やわらかくてかなしい色をしていて、ひとりぼっちでかわいそうだ。でもこの子もきっとすぐにいなくなってしまって、人のいない部屋、ボロボロになった小説、繰り返し繰り返し好きなレコードがひとりで回り続けている。バレリーナ。死ぬまでの暇つぶしは長いね。絶望ではなく怒りでもない。室内に満ちるトレモロ。早く静かに穏やかに至りたいね。長い余生はまっしろないろをしていて、花を散らすと美しい、喪服でかごいっぱいの花びらを無尽蔵に撒きながら、最果てまでの道を踊っていたい。

生きれば生きるほどに少しずつ世界がわかっていって楽になるのだと子どもの頃から言われ続けていた。
嘘だと思っていた。嘘だと思っている。晩年のヘッセが遺した作品を読む。
ページを捲って指紋が擦り切れる。
わかることはない。

花を葬る

台湾に行こうと思ってたんだよね。台湾。わたしは海外旅行をしたことがなくって、英語力も相当あやしいんだけど、海外旅行はしてみたいなーと思っていて。で、初めて行くなら台湾だよなーと思ってたの。日本語そこそこ通じるっていうし、漢字圏だし。前職が拘束時間の長い仕事で、緊急の要件が入ることもあるから海外旅行に行くなら相当面倒くさい申請が必要で、そこまでして行かなくていいやってなってたんだけど、今はもうそんなことないし。んで今月の下旬にプラツリの台湾ライブがあるからそれに便乗して旅行しようウキウキって飛行機もホテルもライブのチケットも取ってるんだけど、わたし行けるのかなー。よくわからん。精神状態が謎で今海外なんか行ったらいろいろやらかしてヤバい気がする。
先週の土曜日にプラツリのおおきな公演があって、とってもいいライブだったんだが、それ以降完全に虚脱していてぬけがら。使い終わった後に中身を出して石鹸で洗って干したコンドームみたいなことになってる。いやそんな無駄なことしたことないけどそういうことしたらこーなるんじゃないかなーていう感じだよね。へろんへろんのへちょんへちょんだよね。ぺろりん。
とてもいいライブで、ああとてもいいバンドだなあこのバンドをすきでよかったなあという気持ちがわたしの半分にあって、その半分はとてもしあわせで満ち足りた気持ちになっているんだけど、もう半分がなんか「あーあたしもう死んでたのかーリアル“お前はもう死んでいる”だったのかーわはは!」みたいな感じで自己の内側が完全分裂、どうにもまともに思考ができない。あたし死んでたのかー、そっかそっか。死体の傍でぼんやり座り込んでいる自分がいることは理解していたんだけど、まさか一緒になって死んでいるとは思わなかった。透明な死体になってたんだね。浮遊する幽霊だ。
佐藤さんだけがお花をくれたので、しばらくはそのお花を眺めて暮らします。幽霊ってお花もらうと嬉しいんだな、知らなかった。存在していることを認めてもらえるだけでぼかあしあわせなんだなあ。みんな、交通事故の現場にはお花を添えてあげよう。かわいそうなかわいそうなあのころのわたし、いままで一緒に生きてきたと思ったら死体だったかわいそうなわたしの半分。黙祷してあげるよ。さよならさよなら。献花。