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質量

気分の上下はある。億劫だがそれはある。ある前提で管理規則を組む。下降したときに使用するパッチを事前に組み立てておく。あなたはこういうときに気分が落ち込みます。その落ち込み方をタイプAとします。その場合は対応するこのパッチA'をあてれば社会生活を営める程度に気分を整えることができます。用法用量を守ってご使用ください。
記憶には質量がある。現実に存在する特定の物質に記憶が被さって固定されることがある。たとえば黄色で塗られた各駅停車の総武線の車両に。たとえば直線になりきれない角度で歪んで正面に続かない環状七号線のゆるいカーブに。たとえば都立大学駅からめぐろパーシモンホールへ向かう途中にある目黒通りを渡るところどころ白の剥げた横断歩道に。記憶はたびたび音楽の形をとり、そしてそれは質量を伴う。耳元で記憶の音楽が再生されるたびに視界が狭まる粘土の高いドロリとした色が混ざりすぎて混迷したはっきりとしない黒に塗られて。ぼとぼと落下してくる涙型のペイントがディスプレイに張り付いてその部分を塗り潰す。ある程度の透明度はあって景色が真っ黒になることはない。ただ汚い。汚染されている。そして質量がある。べとりと張り付いた記憶が音が視覚が意識が、質量がある、重たくて視線は下を向く。地を舐める。地を舐める。地を舐める。地を舐める。
泥の味がする。道路にキスする。犬の糞が落ちている。重力に引きずられた頭を誰かの軽快なステップが足蹴にしていく。めり込んだ頭をめり込ませたまま移動する。道路に醜いレールが生まれる。奴隷のように畜生のように四つ足で進んで地を舐めている。記憶には質量がある。
知らない場所へ行きたい、記憶のない場所へ行きたい、耳元で音楽が鳴らない場所へ行きたい。記憶を捨てたい。過去の蓄積を捨てたい。なかったことになりたい。なかったことにしてください。生きていてよかったと思える瞬間を探して亡者のようにさまよっている。ときどき出会えるそれに縋って浅ましく呼吸している。それでも根本的な解決にはつながらない。あなたを正しくしてあげることはできない。生きていてよかったと思えても、生まれてきてよかったと思えたことはただの一度もない。

という気分には、パッチA'をあてる。
社会生活を営める程度に気分を整えることができます。
用法用量を守ってご使用ください。
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やさしい生活

欲望を撫でて育てている。この子は可愛い可愛いわたしのペットだ。ずっと一緒にいる。子どものころから。変わらずにずっと。ずっと一緒にいる。撫でて育てている。
苦しんで死にたくないだけの消極的選択によって実現している生は快楽へ快楽へ流れる。わたしはそれを肯定する。易き方へ流れる、それをとどまらせない。怠惰に落ちる、それを否定しない。子どものようなわがままと自己弁護を未だに繰り返して、苦しまないわたしが貪る快楽を保障してあげる。二年前のわたしが志したのは自宅に帰れる生活・賃貸を借りている意味がある生活・法によって定められている休日を適切に受け取ることのできる生活で、それを手に入れたわたしはもっと快適な状況を求めている。欲望を撫でて育てている。それを肯定する。
要はお金がほしい。前職はそこそこ給料がよくて貯金も同年代平均よりはあるよねという感じだったんだけど、今はかつかつだしじわじわ貯金が減っていってつらい。わたしは結婚なんか絶対にしないし子どもなんかほしくない、生を積極的に肯定できない人間が子どもを生産する理由がない、ので、法的に連帯する縁者というものをこの先獲得する可能性が著しく低い。自分が生きて死ぬ費用は自分で賄わなければならず、だから貯金を食いつぶすのは望ましくない。とりあえず会社で手当支給が確約されている資格をぽつぽつと取っており、この先も取り続けるし、それでもたいして給与額が上がるわけでもないから近いうちにもう一度転職するのも悪くないと思っている。お金は大切。
わりと一般的なヘイトの対象となりうる属性や思考の型を持っているので、インターネット上に転がっている言葉の上を歩き回るとたくさんの死ね死ね死ねという矢印をサクサク刺されている感覚に陥る。とくに感慨はなく、他者に自己がどう思われているかに興味はない。だから社会はこういった方面で排除の力を働かせる場合があるよな、程度の認識で、同時に、死ねというなら死んでも構わないのだができれば痛くないように消えさせてくれないかなあと願う。今のところその望みが叶うことはなさそうなので、せめて治らない病気になったらスイスに行きたいと願っている。これは前向きな思考だ。

最近考えているのは音楽のこと、メロディとリズムと展開がなければならない特定の音楽のことで、あまり言語化を試みなかった部分に触れてみたいという欲求がある。欲求は相変わらずあり、それを肯定しながら呼吸している。情熱が緩やかに死んでいく過程はいきものの一生と似ていて、意識的にひとつの情熱を殺したことは自己の一部を殺したことと等しいのだと思う。それでもまだ残っている有機的な部分を撫でて育てている。可愛い可愛いわたしのペットだ。いつか石のように冷たく硬く動かなくなってしまったら、ずっと憧れていた場所に連れていってあげたい。でも情熱と呼びうるあらゆる有機的でどろりとした塊がすべて冷え切って固まってしまったら、希死念慮すら消えてなくなってしまうのかもしれないな。それは社会への適合と呼べるのかもしれない。いつかわたしも健全に正常になれるのかもしれない。頭の片隅で、そんなことを考えている。生活は楽しい。生活は優しい。

句点以降の物語について

いつも情熱の死を恐れて恐れて恐れて怯え切っていたのにいざ情熱が死ぬと死んでしまった情熱を悼むほどの情熱もなくただただ空っぽ、内側になにひとつとして存在しない。空虚で快適だ。穏やかな無菌室だ。
目を閉じて指を離したその瞬間はその行為が悲しくて辛くて遣る瀬無いどうしようもない、苦しくて、何度も何度も繰り返し泣いた。でもぷつりと途絶えた。今はとても楽だ。とても楽。呼吸の途中で酸素が引っかかるような引きつるような、引きつった呼吸の先端がこめかみに連なって引き攣れるような、感覚を味わうことももうない。
あんな風になにかを好きになることはもうない。凭れ掛かっていたことを申し訳なく思った。いろんなものを落としてしまって中身が空っぽになってしまっても、死ぬまで生きなくてはならないのは微笑ましいことだ。あとはもう石を積んで余生をやり過ごす。自分の内側とだけ向き合って永遠に会話をしてあげる。空虚さが愛に似ていて可愛い。ヘリウムを持っているだけで安心する。
ほんの少しだけ軽蔑が残っていて、透明のマニキュアを塗った爪の先でときどきそれを転がしてあげる。やわらかくてかなしい色をしていて、ひとりぼっちでかわいそうだ。でもこの子もきっとすぐにいなくなってしまって、人のいない部屋、ボロボロになった小説、繰り返し繰り返し好きなレコードがひとりで回り続けている。バレリーナ。死ぬまでの暇つぶしは長いね。絶望ではなく怒りでもない。室内に満ちるトレモロ。早く静かに穏やかに至りたいね。長い余生はまっしろないろをしていて、花を散らすと美しい、喪服でかごいっぱいの花びらを無尽蔵に撒きながら、最果てまでの道を踊っていたい。

生きれば生きるほどに少しずつ世界がわかっていって楽になるのだと子どもの頃から言われ続けていた。
嘘だと思っていた。嘘だと思っている。晩年のヘッセが遺した作品を読む。
ページを捲って指紋が擦り切れる。
わかることはない。

花を葬る

台湾に行こうと思ってたんだよね。台湾。わたしは海外旅行をしたことがなくって、英語力も相当あやしいんだけど、海外旅行はしてみたいなーと思っていて。で、初めて行くなら台湾だよなーと思ってたの。日本語そこそこ通じるっていうし、漢字圏だし。前職が拘束時間の長い仕事で、緊急の要件が入ることもあるから海外旅行に行くなら相当面倒くさい申請が必要で、そこまでして行かなくていいやってなってたんだけど、今はもうそんなことないし。んで今月の下旬にプラツリの台湾ライブがあるからそれに便乗して旅行しようウキウキって飛行機もホテルもライブのチケットも取ってるんだけど、わたし行けるのかなー。よくわからん。精神状態が謎で今海外なんか行ったらいろいろやらかしてヤバい気がする。
先週の土曜日にプラツリのおおきな公演があって、とってもいいライブだったんだが、それ以降完全に虚脱していてぬけがら。使い終わった後に中身を出して石鹸で洗って干したコンドームみたいなことになってる。いやそんな無駄なことしたことないけどそういうことしたらこーなるんじゃないかなーていう感じだよね。へろんへろんのへちょんへちょんだよね。ぺろりん。
とてもいいライブで、ああとてもいいバンドだなあこのバンドをすきでよかったなあという気持ちがわたしの半分にあって、その半分はとてもしあわせで満ち足りた気持ちになっているんだけど、もう半分がなんか「あーあたしもう死んでたのかーリアル“お前はもう死んでいる”だったのかーわはは!」みたいな感じで自己の内側が完全分裂、どうにもまともに思考ができない。あたし死んでたのかー、そっかそっか。死体の傍でぼんやり座り込んでいる自分がいることは理解していたんだけど、まさか一緒になって死んでいるとは思わなかった。透明な死体になってたんだね。浮遊する幽霊だ。
佐藤さんだけがお花をくれたので、しばらくはそのお花を眺めて暮らします。幽霊ってお花もらうと嬉しいんだな、知らなかった。存在していることを認めてもらえるだけでぼかあしあわせなんだなあ。みんな、交通事故の現場にはお花を添えてあげよう。かわいそうなかわいそうなあのころのわたし、いままで一緒に生きてきたと思ったら死体だったかわいそうなわたしの半分。黙祷してあげるよ。さよならさよなら。献花。

そこは彼岸ではない

きらいなものが腐るほどあって腐っている。夏はいつも腐臭がする。通勤で走る熱されたアスファルト、自転車のタイヤが転がって体が移動する。移動する体の前をゴミ収集車が走っていて、この季節のそれはいつも耐えがたいほどの汚臭を放つ。生活のにおいだ。人間の生活のにおい。わたしたちが排出した生活の滓が、朝早くから肉体的に負荷の重い労働に従事する人たちの手によって集められて、まるで見たこともないような高温で燃え溶かされて消えていく。消える瞬間まで汚臭を放つ。
要するにゴミ捨て場がくさい。マンション内にあるごみ捨て場は24時間365日、どんなゴミを出してもいいからゴミ出しはとても楽。ただしとてもくさい。夏場は地獄のようなにおいがするので、息を止めながらゴミを出す。ゴミ収集車の後ろを走るときも、息を止めながら追い抜いていく。ゴミ出しをしてくれる管理人のおばちゃん、このクソ暑い中ゴミ収集をしてくれるおっちゃん、いつもありがとう。そしてわたしは自分の部屋から生ごみを追い出す。1日として部屋には置いておきたくない。ゴミ捨て場がどんどんくさくなる。腐敗した生活の滓。

うすうす感づいてはいたのだが見ないようにしていた事実をつい先日直視してしまった。太った。それはもう太った。鏡を見てしまって「うわあ」と思った。一昨年から去年くらいにかけてわりと真面目に糖質制限をしていて、サクサク体重が落ちていい感じだったのだけれど、ふと「あ、もうむり、ごはんたべたい、お米お米」とお米をたべてしまったらそれ以降ぜんぜん我慢できなくてあっさりと体重は戻りそして戻った以上に増えたのだった。うう……。いい加減ごはんを我慢する系は絶対に続かないことを自覚しよう、ということで運動することにしました。とりあえずプール通い。泳ぐのだけは好きだから。スイムスイム。水に溶けて体なんて喪失したい。
さてところでどれくらい太ったのかよくわからないんだけど、それは体重計に乗っていないからだ。体重計に乗っていないのは「絶対太った……これはおそらくンーkgくらいはある……そんな数値を目撃してしまったら絶望してもう生きていけない……とりあえずもう少し落とすまでは乗れない……」とかいう超非合理的な世迷い言を繰り返してその結果延々と体重計に乗れないまま半年くらい生きているからだ。現実を見るために乗るべきなのはわかっているんだけど、わかっているからといってやるとは限らないね!わたしはわたしを徹底的に甘やかすので、体重計に乗るのは1か月後にします。それまでに数字を目にしただけでショック死する領域から脱さなければならない。今日もプール行ってバシャバシャ泳ぐのだ。冷たい水にまみれて肉は燃えて消えろ。焼却されろ。鏡を見て憎々しく思う、おまえの15%くらいをゴミ捨て場に出してやるからな。

きのうとちがうかいぶつ

定義するのは難しいが、日々の細やかな定義づけの連続こそがある一定期間のわたくしのプログラムを成立させるのだろうな。あたしとわたしは随分と乖離しているので。
最近はどこにも発表しない小説をぼんやり書いているのと、ごくまれに「あー」と思って詩を書いて物置に放置するのと、あとはライブに行った感想をはてなのブログに書いてる。はてなの方のわたしはできるだけポエティックで伝わりづらい言葉を使用しないようにしているからわりとまともなんじゃないかなーと自分では思っているけれど、逆に言えばそれってつまらないことだね。でも整えるとつまらなくなるようなものは最初からおもしろくない可能性が高いし、つまりあたしは今あたしに対して十全な愛情を保てていないのではないかしらん。もっとナルシスティックになりたい。
自分の上限のことをたまに考える。自分の指で記録する文字列の上限について。あたしの全力っておそらく一日一万字くらいで、そしてその一万字にどれだけの熱量と愛情とあたくしそのものが入っているかどうかはあんまり関係なくただただ諾々と必要に迫られて書いたどうでもいい書類の一万字だとしても、そこで消費された文字数はもう帰ってこなくて、仮に時間と情熱が余っていたとしても残りの時間を使って自分のための言葉を綴ったりすることができない。一万字くだらない文章を書くことで、その日のあたしのあたしのための一万字が死ぬ。不本意な文章の製造は自殺に近い働きをする。あたしは日々あたしをぶち殺しながら生きているのね。生存なんて日々の死亡と甦りだ。人生がフェニックスだ。

固定した過去がわたしを糾弾するさまをときどき傍観する。かつてのわたしが絶対に赦さなかったものを怠惰に許容するわたしをあの子が詰る。泣きながら叫んで地団駄を踏んでいる。かわいそう。かわいそうだね。でもおまえの指はおまえだけのものだろ。おまえの言葉はおまえだけのものだろ。いまのあたしは混ざりものだから、きみとはもう違うし、きみが糾弾する権利を持つのはおそらくわたしのうちの三パーセント程度に過ぎないんだよ。
でもそう言えばあの子はじっとりと湿った眼球であたしを舐める。ばかじゃないの。あたしだってあたしそのものではないし、いつだって単なる混ざりものでしかなかった。でもその混ざるものは自分で選択していた。いまのおまえは不適切な混ざり方をしている。怠惰で卑しく、みすぼらしい。

そうだね、と思う。そうだね。わたしは霊感を得るために他を利用しないといけない。作り直してあげるの?と尋ねてくる声に、作り直すことはできないよ、と回答する。同じものには戻れないんだよ。自傷して自傷して自傷して血を流して、そこにパンプキンパイを詰め込んでおいしく仕上げてあげる。中身はいつも違うものだ。同じおやつを詰めても、過去と同じリボンを飾っても、うまれてくるのはちがうかいぶつだけ。きのうとはちがうかいぶつがうまれるだけ。

 *

転職してライターぽいことをやっていたのだが、言われたことを諾々と書きながらホイホイ働いていたら、いつの間にかディレクターとかいう違う仕事の人になっていたので今はそういう感じの人をやっている。どうでもいい文章をあまり量産しなくていいのは助かる。
転職したらちゃんとお弁当を作る人になるよ°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°って思っていたはずなのに、ここ最近はめっきりお弁当を作っていなくていつもスーパーで買ったりファミレスに行ったりして昼食をとっている。野菜をあまり摂取できていなくて健康的でないので、なんとかしたいなあと思っている。思ってはいるけれど、思っているだけだよね。週末に作り置きをして暮らせばいいとは理解しているのだけれど、でも週末は寝ちゃうんだよね……。一日中ベッドの上でゴロゴロしてワイン飲みながら本読んでスマホでゲームして(FEHをやっているの)音楽聴いて眠くなったら寝て、という自堕落を自分に許すともう際限なくそのままでベッドから永遠に出られなくなるタイプの罠。休日はすぐに死亡していなくなってしまう。おお、休日よ、死んでしまうとは情けない。殉職した休日ちゃんを悼む間もなく、気を抜くとあっという間に平日だ。
夏場はスープを台所に放置しているとすぐに腐るので、あまりスープを煮込まない。スープを煮込むという行為を愛しているので冬場はスープを煮込んではスープジャーに入れて会社に持っていくくらいのことができるのだけれど、もうこの気温だとダメだなあ。いや、スープを煮込んだら煮込んだスープは冷蔵庫でひんやりひゃんひゃん待機させておけばいいだけの話なんだけどね。鍋ごと放り込めばいいだけなんだけど。生活は面倒くさいなあ、肉体は億劫なので、はやくソフトだけになりたいです。ごきげんよう。

憎悪を増幅させる装置としての生

ここももう墓場みたいだ。切羽詰まって書き綴りたい苦しみもない。
それは苦痛が和らいだとか憎悪が薄れたとかそういうことではなく、未だ身の内に自分であら嫌だわうふふって嘲りながら愛でて唾を吐きかけてやりたいような悪意はゾワゾワ、蠢いては喉元から隙をついて出てこようとする。舌で味わうと苦い。笑えるくらい甘い。
でもそれをある程度馴らして飼ってあげられるようになったのかな。人に伝えなくてもいいと思うようになった。これは進化ではなく怠惰だろう。繋がって分かり合うための努力を放棄するようになった。お前が五秒に一回ずつ死に続けるように祈っているだけ。

一日一個の林檎を食べるようにしている。健康でいたいからだ。一分一秒過ぎる毎に年を取って肉体が老いていくから、わたしのあらゆる機能はどんどん壊れていく。ビタミンを取ろうね。筋トレもしようね。若いだけで許されていた時期が静かに去っていくから、これからは一方的に肉体は衰えていくだけだ。健康に生きていくために、健康でなくなったら死ぬために、わたしの自由意志でこの体を操作できる期間をできるだけ長く獲得しなければ。肉体をメンテナンスする。機械のように大切に扱う。それも嫌ではない。思考さえ生きていればいい。でも思考も硬質化していくのかしらね。新しい言葉を見つけられなくなっていく。内側にあるものだけでは足りない。わたしは空疎だから。悪意で満ちる空疎。空疎だから入り込んだ悪意はその体いっぱいに満ち満ちて、全身の全てになっては舌先と指先から零れ落ちていく。お前が五秒に一回ずつ死に続けるように祈っているだけ。見たくもない死にざまを嘲笑っているだけ。

カーマイン、ストロベルー、ポピー・シグナル・コーラルレッド

五年以上前に買ったY-3の真っ赤なピンヒールがダメになっていることには薄々気がついている。FUDGEで一目惚れして渋谷の西武B館に入っているY-3に行き、実際に手に取って履いてみた。色彩の鮮やかさとフォルムの美しさと履いたときの滑らかな脚の見え方、そして同時に全力で走ることさえできる動きやすさを全て同時に成立させているところ、に惚れ惚れとしたのだった。当時のわたしの収入ではY-3はかなり高額な買い物だったので、正直諦めるために見に行ったのだけれど、実際に手に取ってしまったら一目惚れを気のせいにするどころではなく好意の裏付けをガッチリ形成することになってしまって、諦めて購入したのだった。それ以来何度も何度も何度も何度も繰り返し履いているこのヒールは、しかし、そろそろ限界だということに薄々は気がついている。
わたしは体重を右側にかけてしまう方らしく、靴は右側の方が早くすり減っていく。Y-3のヒールもそうで右側のヒールが左側よりも5mmほど多くすり減っていて、並べてみるとよく似た双子のように似ているからこそ同一ではなく差異が目につく。それだけではなく足をくまなく覆ってくれる皮の部分も内側がけばけばになってしまっていて、それはわたしが歩くときに反対側の足の内側をすりがちだからなのだけれど、だからつまりみすぼらしくなってしまっている。つま先も薄汚れていてかつての真っ赤な印象は少し濁っている。黒や灰色や茶の印象が、真っ赤だったヒールの印象を点々と汚している。
靴は履きつぶすまで履くが信条で、でもこの子はもう履きつぶしてしまっている気がするな。もう限界がきている気がするな。でもまだ履いている。本当は全く同じものがもう一足ほしい、それなのに同じものは売られていないし、似ているものもない。Y-3はこの後何回かハイヒールを出したけれど、最近はあまり見かけない気がする。あまり熱心にコレクションを見ているわけではないから、もしかしたらそんなことないのかもしれないけれど。でも少なくとも今季はない。靴の中古は嫌なのに、いっそ中古で一生懸命探そうかな、という気持ちにすらなる。大好きなんだよ。でもこんなにみすぼらしくなってしまって、ありふれた双子のように左右で違ってしまって、それなのに履き続けるのはなんだかいじめているみたい。履きつぶす、はどこまで汚れてくたびれてしまったら「履きつぶす」になるんだろう。わたしはいつまでこの子を踏みにじり続けるのかな。ていうかそろそろ一般的な大人が履く靴としてちょっとヤバい領域に達しているのではなかろうか。ヤバい。

今年の1月はあまりセールに行っていない。お金がないからだ。それこそ五年以上前にY-3のハイヒールを買ったとき、あのときよりも現在のわたしの収入は少なくって、だからそうホイホイ新しい服や靴を買うわけにはいかないってこと。でもCUNEのセールには、ライブの帰り道にふらふら寄って行っちゃった。そこで生肉をむさぼる可愛いうさぎ柄のお弁当箱を買ったのだけれど、年が明けてからまだ一度もお弁当を作っていないのであんまり役立っていないな。いや、「お弁当を作っていないのであんまり役立っていないな」なんてぼやいていないで、お弁当を作って持っていけばいいのよね。明日はお弁当をちゃんと作って持っていこう。お米と野菜とお肉が詰まっているだけの、ごく簡単なもの。

お弁当を作らないでどのように生活しているかというと、普通に外でランチを食べている。よくお世話になるのはサイゼリヤやガストなどのファミリーレストランで、ああいったところは500円でお昼ごはんが食べられるのでえらい。あとは会社の近くにあるカレー屋さんが540円でカレーを食べさせてくれるので、辛くてサラサラしたものがたべたいときはそこへ行く。ときどき新しい辛くてサラサラしたものを食べたい気持ちになって隣駅まで行って辛くてサラサラしたカレーを出すお店を開拓したりするのだけれど、結局会社の近くのカレー屋さんが一番おいしくて、他のお店に居つく結果にはなっていない。会社の近くの辛くてサラサラしたカレーは、真っ赤な色をしていて、舌に乗せるたびに複雑な香りをまき散らすところが好き。赤いハイヒールを履いて、赤いカレーを食べて、履きつぶすことの定義を考える。真っ赤なハイヒールのことを考える。

ほんとどうしようかな。子どもの頃から真っ赤な靴を履いていたので、真っ赤なハイヒールは常にあってほしいんだよね。Y-3がもう一回、あの靴だしてくれたらいいのに。全力で走れるヒール、最高なんだけどな。

美しくないことによって意味が失われること

今のiMacを購入したのはいつ頃だったかな。前の部屋に引っ越してしばらく経ったあとのような気がするから、三年ほど前のことかな。過去はすべて過去というフォルダの中にぐちゃぐちゃと詰め込まれているだけだから、その中に区分はない。一年前も、五年前も、十年前も、一秒前も、全部同じだ。全部全部同じ。それらは等しく、取り返しのつかない、もうどうしようもないものたち。
あの子を買ったのはiPhoneを購入した少し後で、そうだから、ああ、じゃあ二年くらいしか経っていないのかな?いずれにせよ過去には違いないか。そう過去に、iPhoneを購入したから、いっそiMacに買い替えてしまえばいろいろと管理が楽なんじゃないかと考えて買ったのだった。今のiPhoneを購入した理由が「その前に使用していたガラケーをなくしてしまったから」で、そのときわたしは電話帳と音楽と写真のデータの空白を目の前にして、すっかりと途方に暮れてしまったのだった。自宅のPCで簡単にバックアップできればこんなに途方に暮れなくてもよいはずで、だからもうiMacにしようかなと思ったのだった。
でも一番の理由はそれじゃないな。一番の理由は、やっぱりフォントかな。ビッグカメラのパソコン売り場で、整然と並んで、歩くわたしの視界を連続して素通りするたくさんのディスプレイの中で、彼らが一番、フォントが美しかったから。その画面で見る文字は滑らかに美しく、見るたびに感動を覚える形状をしていて、結局はそれが一番の決め手だった。文字が美しければあとはほとんどのことがどうでもいい。文字が美しいだけでそのディスプレイには価値がある。
フォントが美しくないと仕事をする気にならないな。汚いフォントを見ていると苛々する。文章を読む気にならない。それは文字ではなく汚い絵だ。そのように認識するんだ。醜い形に止め置かれて、それ以上変化することもできず、固定されてしまって、取り返しがつかない。言葉として意味を受け取ることができない。美しくないから。美しくないという理由で。文字が言葉になれない。じぐざぐしたみっともないフォントは、完治したあとも引き攣った形で残り続ける傷跡のようで悲しい。ばかばかしい。

最近めっきり観たものの感想を書いていないから、たまには書いとく。

20161210 sat マームトジプシー「ロミオとジュリエット」@東京芸術劇場
素晴らしかった。最終場面から小刻みに、同じシーンを何度も反復しつつ小刻みに、時間を巻き戻しながら物語が展開していく構成が美しかった。
シェイクスピアの仰々しい台詞、日常では決して用いない言葉が、言葉の意味以上に舞台装置として機能していた。形容詞が多く実態に乏しい、しかし美しい台詞たちが絶え間なく繰り返され続けて、その繰り返され続ける虚ろな言葉たちを反芻することによって舞台上の出来事はどんどん条件付けされていく。始めから終わりまで何度も何度も反復される、「夕べ夢をみた」「わたしもみた」「どんな夢?」「夢をみるやつは、嘘をつくっていう夢」という一連の台詞たちが、条件付けが重ねられてゆくたびに、どんどん質量を増して重く重くなってゆくさまが印象的だった。
ロミオ役は青柳いづみ、それが本当に素晴らしくって。硬質で透き通った声、常にどこか憂いが滲む瞼!こんな役者他にいないなあ、としみじみと思わされる。

そう、ロミオ役は青柳いづみで、衣装も普通に女性のもの。でも別に「女性と女性の物語」的な印象は受けなかったし、わたしは単なる記号とトーンの問題だと思っていたので、そういう見方があることにびっくりした。もし「女性と女性、禁断!」的な意図があっての改変ならちょー笑ってそのあとにがっかりしてしまうので、事前情報なしに見て受けた「音と質感を記号的に統一したんだね」という自分の印象をそのまま大切にしておこうと思います。

小道具も大道具も衣装も音楽も、本当に素晴らしくてとっても満足。ただ、付け加えられた要素である「きよちゃん(ひよちゃん?)」は蛇足だなと思った。あそこだけ舞台上に演出家の顔と声と自意識が透けてみえて、作品として美しくない。そういう役割なのかもしれないけれど。




20161213tue THE LOST BOYS PRESENTS INTO IT. OVER IT. JAPAN 2016@WWW X

toeが本当に楽しくって、でもそれよりなにより、WWW Xの音響の素晴らしさにびっくりした。WWWもそこそこいいけど、あそこはフロアのどの位置で聴くかによってバランスめちゃ変わるから、あんまり好きじゃなくって。でもWWW Xはよかったなあ。
都内中箱の音響最強はリキッドだと思っているのだけれど、ちょっと揺らいだかな。印象としては、ハイもロウもクリアに出る感じ、わりとパッキリしていて音の分離性がいい、解像度が高い印象。硬め。最近あんまりリキッド行ってないから(今年の2月が最後かな?)今度リキッド行ったらまた感想変わるかもしれないけど、ミドルはリキッドの方が強いのかなあ?とか思いながら聴いてた。久しぶりにリキッド行きたいなあ。カウントダウン行こうかな。

初見のIIOIはメロディアスでシンプルなエモっぽいバンドで、聴いていて気持ちよかった。いい意味で展開がベタで、「次はこうくるかな?こうくるんでしょ?ほらきた!」みたいなノリやすさがあって楽しかったよ。でも、聴いていて気持ちよかった以上の感想にはならなかったかな。演奏面も特筆すべき箇所はあんましなくって、驚きや発見からくる興奮もあんましなかった。数曲聴いて満足したので、MCの途中で外に出て、空腹を癒すために焼き鳥屋さんへとおもむき、思うがままに焼き鳥をたべた。おいしかった。Kさんと一緒に行って、お互いに「23時には帰ろう!」とか言ってたのに、結局電車に乗ったの24時近くだった。どうして今日は金曜日じゃないのかな…とか呪いの言葉を垂れ流しながら帰宅して、寝た。よい日でした。

で、WWW Xってなんて読むの?ワロスエックス?

あたらしいくすり

悲しくなったり苛立ったりやりきれなくなったりしたときばかりに日記を書くから必然的に日記は暗くなるのだけれど、別に日々日々日々日々悲しいわけではない。さみしいな、とか、かなしいな、とか、腹立たしいな、とか、そういった感情たちは確かにいつでも腹の中に住んでいていなくなることはない、あの子たちの存在をわたしはいつだって感じている、生涯を共にする伴侶、でもあの子たちは騒ぎ立てて自己主張をたくさんするタイプの子でもないの。
だから最近の懸念事項はそういった内的なものではなくって、自転車のチェーンとブレーキのこと。そろそろチェーンは交換した方がいいし、ブレーキも調整した方がいい、でも近くにいい自転車屋さんがないんだよね。以前利用していた自転車屋さんは今の家の近くには店舗がないし、どうしようかな。自分でやってみようかなと思ったけれど、冬だし寒いから嫌だなあ。できればお店にお任せしたい。最近の悩みはそれくらいかな。

グレッグ・レイクが死んじゃったみたいで、今年はキース・エマーソンも死んじゃったから、あーあ、といった感じ。年を重ねて年を重ねて年を重ねてゆくごとに、どんどん好きなミュージシャンが死んでゆくようになっちゃうんだろうなあ。もちろん進行形で、若手のミュージシャンもどんどん好きになってゆくから、老いた人たちがぺろぺろ死んじゃってもこの世から好きなミュージシャンが全ていなくなってしまうなんてことはない。でも死んでしまっても音楽は残るから、好きなものは総量を喪わずにただ堆積していって音色の記憶が重い。わたしは記憶力が乏しくっていつだってなんだってすぐに忘れてしまう、でも具体的な事象が消えてしまっても、印象は残る。印象だけが遺る。音楽を聴いて動いた心のことを覚えている。今はもうその動きに同期できなくなっていても、かつて描いたその軌跡を思い返してなぞることはできる。かつてあった情動を思い返す。遠く懐かしむ。薬物中毒患者のように、より強い刺激を求めようとして、また知らない音色を探す。それに手を伸ばす。聴いたことがない音楽を探しながら、もっと遠い所へ行きたい。もっと遠いところへ行きたい。
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