2010/12/11
各駅停車の電車が好きだ。しょうもない短間隔ですんすん止まるところが、律儀なだだっこみたいで、かわいい。空いている各駅停車の隅っこの席と音楽は、びっくりするくらいに相性がよくって、まるで双子みたい。イヤホンから流れてくる音楽と、背中とお尻と足の裏からしきりに自己主張をしてくる振動と、うすぼんやりとした加速度、そればっかりに意識が包まれる。乗り降りするひとたちを眺める。反対側のドアの手前に、濃紺の毛羽立った素材のポンチョに、黒タイツに、ベロアのかっつりした形のヒールに、青色に複雑な模様の入った大きなトートバックを持った、背の高い女のひとがいる。電車が駅に停止するたびに、一度振り返る。私は彼女のくるぶしを見ている。黒色。電車はまだ目的地に着かない。
前回日記を書いた翌日に、事態は好転したので私は帰宅した。金曜日は仕事をした。仕事を代わってくれたひとたちや、休暇を出してくれたひとたちに、頭を下げて回った。ほんとうに感謝しているひとに心から頭を下げ、まったく感謝していないひとに形式的に頭を下げる。見た目に差異はない。外側からは違いは観測できない。溝は私の中にしかない。生きやすく生きて息したい私は、お礼は丁寧にを心情としているので、いずれのお辞儀もとても丁寧だったろう。この程度のことが社会性だ。この程度のことが社会性だ。くそくらえだ。以前会った知人の連れてきた女のひとは、私がお酌をしようとしたら、「なんだ、普通の人じゃん」と言った。社会性なんてその程度のものなんだろう。くそくらえだ。ごめん、もう二度と会いたくない。
先日、高いワインを貰ったので、友人の家に遊びにゆく。友人は、お酌が嫌いだと言う。強制される飲み会も嫌いだと言う。彼女と一緒に食事をすると、ついだりつがれたりを意識しなくていい。とてもフラットでいられる。彼女のグラスが空いていたらそそいだりするけれど、私がしたいからしているだけで、なにも嫌じゃない。それは、彼女がそそがれることを待っていないし、それによって私を評価しようと舐め回していないからだ。
面倒ごとが背中にのしかかる。私の毛や皮膚や内臓を、少しずつたべてゆく。そうやってゆっくりと、二〇一〇年が暮れてゆく。でもそんなものだろう。呼吸をしているのだから仕様がない。
どんなことがあっても私は忘れることができる。呼吸をしている私は代謝をしている。たべられてしまった毛や皮膚や内臓を、しかし次から次へと再生してしまう。一瞬一瞬に自殺する。一瞬一瞬に生き返る。ゆっくりと生き返る続ける。それはつまり、瞬間の消滅と再生はひとつの大きな再生であり、そしてひとつの大きな再生とはつまり、ゆっくりと死んでいく過程で、ならばなにを背負い込んでも、怯えることなんてないのだろう。細胞が死んでまた私は違うにんげんに作り替えられてゆく。私は忘れることができる。私にはどうしようもなくつらいことなんてひとつも存在しないのだ。少なくとも、私の覚えている限りにおいては。
電車が止まる。電車からひとが降りてゆく。電車にひとが乗ってくる。私の隣が何人も何人も入れ替わってゆく。ポンチョの女のひとはもういない。私もあと三駅で電車を降りる。イヤホンから音楽は流れ続けている。