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ぶっちぎれ

■0
「生まれてきてしまったこと自体が決して打ち消すことのできないサイアクのフコウなのだから生きている以上あたしは絶対にコウフクになることなんてできない!」
「まちがえた!羊水の中でまちがえた!」
「閉じこめられるといらいらするの。いらいらしてそこから逃げ出したくなる。羊水の中でわたしはたぶん憎んでいて、だから母という名の化け物の腹から逃げ出した。間違えた。羊水の中で間違えた。<こんなはずじゃなかった>。いらいらする。わたしはあらゆるものが恐ろしいし、あらゆるものをぶち壊してしまいたい。おまえが肉体の末端からゆっくりと腐りながら苦しみ抜いて死ねばいいのに!」
「母、とはわたしの母のことではない。母というあらゆるすべての存在のことで、概念のこと、そしてそれは化け物である。化け物である。母とはつまり永遠という意味であり、再生し続ける不可避の拘束のことである。それは化け物である。」
「わたしはわたしを不連続な瞬間の集合であると言う。わたしは不連続な瞬間の集合である。」
「生まれてきてしまったこと自体が決して打ち消すことのできない最悪の不幸なのだから生きている以上わたしは絶対に幸福になることなどできない。幸せを至上命題として生きるということはその言葉自体がすでに矛盾していて成立することができない。ここに在るということがもう既に不幸であるので、わたしという集合の全体が幸福へ向かうということは不可能である。じゃあどうして生きているのとあたしが言う。じゃあどうして生きているの。それにわたしは答える。そんなことはもうわかりきっている。わかりきっている。わたしはすばらしい一瞬のためだけに生きている。すばらしい一瞬のためだけに。生まれてきてしまったという壮大な間違いを打ち消すことのできる、その瞬間だけでも打ち消すことのできる、すばらしい一瞬のためだけに生きている。わたしというたくさんの点のほとんどすべてが地べたを這いずり回りあらゆるものに呪詛を吐き続けていようとも、たった一瞬、ほんの一瞬、すべてをぶち壊すことのできる圧倒的な瞬間、たった一点、その時間を通過するためだけに。それだけのために。不連続なわたしはただそれだけのために。ぶっちぎって!いくしか!ねえんだ!!!なにもかも振り切って。あたしは通過する。あたしは通過してゆく。」
「「「「ぶっちぎれ!!!!!」」」」

■1
そんなことはどうでもよいのだけれど、わたしはにんげんよりもにんげんの作った音楽や文学の方がすきで、それらをとっても愛している。大好きで、結婚するんだったら、音楽か文学がいいなって思う。音楽や文学と一緒に出かけたいし、音楽や文学と一緒にお酒を飲みたいし、音楽や文学とセックスをしたい。にんげんもまあ、きらいじゃないけど、でもやっぱりちょっと、やだな。
こないだ職場のにんげんたちと空を飛べるクスリのおはなしをしたのだけれど、わたしにはやっぱりちょっと、よくわかんないのだった。彼らは空を飛べるクスリはダメだとかでもあったら試してみたいって思うかもしれないだとかいやそんなことはないだとか使っちゃうにんげんは意志の弱いにんげんだとかいろいろ言っていたのだけれど、そんなことは、わたしにはどうでもよくって、つまり、どうして空を飛ぶのにクスリが必要なのかわたしにはちょっとよくわからない。トリップするためにクスリが必要っていうのはちょっと、なんていうか、無駄っぽい。空を飛びたいなって気持ちはわたし、とてもよくわかるけれど、クスリはいろいろと面倒なので、そういう手段はちょっとダサいっぽい。そんな面倒なものよりももっと簡単に飛べる方法があるのに、どうしてみんなそうしないのか、わたしにはそれがよくわかんない。部屋を暗くして、毛布にくるまって、お酒を飲んで、丸くなったままヘッドフォンをかぶればいい。たったそれだけで、わたしは簡単に空を飛べる。飛ぶだけじゃなくて、空を食べたり、割ったり、そういうことも、できる。わたしにとってわたしはだいたいいつも他人で、だからとてもコントロールしづらい。そんなわたしを上手に操るための手段として最適なのが音楽で、そう、音楽、音楽はとても簡単にわたしにわたしをドライブさせてくれる。肉体なんて不必要なものを持った不愉快なわたしをとても快適な乗り物に変貌させてくれる。音楽。音楽音楽音楽。愛してる音楽。愛してるの音楽。愛してる。そして音楽に愛してる愛してる愛してるよってあたし、言葉で、語る。言葉。文学。
飛ぶ用リストっていうのがわたしのウォークマンには入っていて、いろいろあるのだけれど、やっぱりゆらゆら帝国がわたしはいちばんよくわからないところに飛べる。あんまり高くない、でも、不安定でよくわからない、ところ。午前3時のファズギターとかで、わたしはだいたい、よくわからないところまで飛んでいく。ふわふわして不安になって、奇妙、定まらないわたしのように定まらないところで停滞してぼんやりしている。ちなみに潜る用リストっていうのもあるよ。そっちはプラが多いの。どちらもわたしは大好き。音楽。わたしのブランケット。ライナスの毛布。そして毛布にくるまってどろどろに溶けてわけがわからなくなったわたしをかき集めてにんげんの形に整えていく、たくさんの言葉。言葉たち。
音楽でわたしは拡散して、言葉でわたしは収束する。
どちらが無粋で、どちらが汚いかって言ったら、たぶん言葉だ。でも、どちらがよりわたしであるかと言ったら、たぶん言葉だ。音楽はわたしのシェルター。言葉はたぶん、わたしの、輪郭。

■2
さいきん新人教育など任されていてものすごく面倒。その新人さんはなんか変だ。まったく話しかけていないのに「はい」って言ったり頷いたりするので、たぶんわたしに見えないなにかが見えているんだと思う。その新人さんはいわゆるバンギャらしく、わたしがロッカーの目隠しに使っているlynch.のタオルにちょう反応してちょう絡んできたけど、めんどうくさい。わたしはたぶんバンギャなのだけれど、バンギャはこわいし、苦手だ。あのひとたちはだいたい、バンドマンの日記は読んでいて当然だし、雑誌もチェックして当然だし、ライブではメンバーの表情や動きをチェックしていて当然だし、というスタンス以外を許容しないので、おそろしい。日記の話を当然のようにされて、少し困る。わたしは読んでいないので、知らない。あと、仕事中にバンドネタのせりふを言ったりしてにやにやするのも、困る。職場っていう社会的な場所で内輪ネタつかってにやにやするみたいなオタクっぽい行動、きらい。

■3
こないだの六月にあった「ゆくプラきたプラ」のDVDが出たので、買った。このライブはほんとうによいライブだったので、DVDはとても楽しみにしていた。プラのライブDVDにしては珍しく、客席が映されていたり、MCが入っていたりと、ライブをそのまんまDVDにしたような形で、おもしろかった。買ってから何回か見たのだけれど、このライブがどうしてあんなに楽しかったのか、なんとなく納得がいった。セットリストがとにかくライブ映えする曲ばかりで固められていたところは、やっぱりすごく大きいと思う。プラは基本的に音源よりライブの方が格好いいバンドだと思っているけれど、その中でも特にライブ映えする曲っていうのはやっぱりあって、わたしはたとえば、「冬の海は遊泳禁止で」とか、「本日は晴天なり」とか、は、ライブの方が格段に格好いいと思う。「涙腺回路」や「無人駅」もギターがほんとカッコイイし、「メルト」なんかライブだとノイジーに始まってサビで一気に広がってゆく感じがすごく強調されていて、大好きだなと思う。「エーテルノート」や「クリーム」もライブの方がきゅんとして飛び跳ねたくなるし、「Ghost」「メランコリック」「リセット」なんかは言うまでもなくライブ曲だよね。そんな感じで、まずセットリストがよかったし、それに、映像と照明がこの日は最高だった。わたしは「ムーンライト」はそこまで好きではないのだけれど、青と黄色の光がパッパッと明滅するあの空間はすごく格好よくて、好きだなあと思ったし、最初三曲の天蓋の演出はちょっと泣けた。抜群によかったのが「―――暗転。」と「本日は晴天なり」と「リセット」で、これはライブ会場で鳥肌が立って感動した曲たちだったので、また見られて、嬉しかった。「―――暗転。」の、軽やかなアルペジオの残響が、しん、と消えてから一気に襲ってくる轟音、そしてそれと連動して背景に広がる鮮やかな光、最後にはマグマのように鮮烈、変化してゆく色たち。うつくしかった。「本日は晴天なり」は、真っ青、ただただ真っ青、それを背景にただ歌っただけなのに、それが泣けちゃうくらいにかっこうよかった。そして、「リセット」、ポイントが欠落して相対比がまるででたらめで……。楽しすぎて笑いだしてしまったのを思い出した。大笑いしながらわたし、飛び跳ねていた。あと、ドラムがケンケンに変わってしばらくたってから毎回思っていることだけれど、ケンケンはすごく、プラの世界を最適化させるのに向いているドラマーなのかな、と思う。大正谷さんが土台を作って、ぶっちが変革をもたらして、そしてケンケンはそれを完成へと持っていくドラマーなのかな。彼は強弱をつける、表情をつけるのがすごくうまくて、たとえば冬の海とか、メルトなんかは、佐藤さんに変わってから抜群によくなったと思う。逆にやっぱりぶっちじゃなくちゃ…と思う曲もいくつかあるのだけれど、(空中ブランコとかね、)それもまた変わってくるのかもしれない。わたしはササブチヒロシというドラマーが大好きなので、どこまでもぶっちぎって突っ走って叩きまくる彼が大好きなので、彼がいないことはいつまでたっても寂しいのだけれど、演奏のまとまりはケンケンが叩いている今の方がずっといいと思う。あの日のお別れは、ぶっちにとってもプラにとっても、よかったのかな、って、最近やっと、思えるようになってきた。とにかくこの日は、選曲も映像も照明も演奏も、ぜんぶよかったの。プラは最近のV界隈には珍しく、とりあえず暴れて終わりじゃなくって、聞かせる・見せるライブができるバンドなので、映像と音楽の融合っていう試みは、このまま続けていってほしいなと思う。
そんな感じで、このDVDにはだいぶ満足しました。唯一の不満は、中山さんの「おまえらバンギャってやつなんだろ?(どや顔)」「俺がおまえたちの受け口になってやる!(どや顔)(受け皿が正解です中山さん)」が入っていなかったことです。たいへん遺憾です。許しません。

■4
ケーキがたべたいです。神奈川に帰ったら、ケーキをたべます。おいしくて甘さが控えめのケーキがいいです。あと、地元のちいさくてカジュアルなフレンチのお店、店舗移転してから一度も行けていないので、そこにも行きたいです。帰ったら行きます。それからお酒もたくさん飲みたいし、ピザも食べたいし、秋刀魚のお刺身も食べたいし、それから、それから……。

■5
分離して、しまって、いるけれど、コントロールはできている。わたしはわたしの付属品で、思いのままだ。たまにわたしに先読みのできないことをわたしはするけれど、しかしそれは、わたしの仕様であるから、わたしである以上、それは仕方がないし、それはそれでいいのだ。わたしは喋り方がとろくさいし、だいたいいつもねむたいし、話をきちんと聞くことが面倒なのでたいていいつも笑っているし、だからおっとりしているなんてたまに、言われる。おっとり。職場のひとたち、特定の誰かにはやさしく、特定の誰かにはむっつりして、対応したりしているけれど、そうやって個別に対応が変わるというのは、それだけ特定の感情を特定の個人に対して持っているということだ。わたしは基本的に誰に対しても対応は変わらないので、偉いねなんてたまに、褒められるけれど、それはわたしがみんなみんなみんなどうでもいいからだ。わたしは職場のひとたちなんて全員どうでもいいし、全員あした死んでも別にかなしくないし、友だちになりたいひとなんてひとりもいない。プライベートで誰かに会いたいなんて、一回も思ったことがない。だからわたしはみんなに同じ態度を取ることができるし、みんなに同じ顔で笑うことができる。
おまえら全員死んでしまえ。
わたしは今日もにっこり。

■6
上も下も、死体だらけだ……。空、夜空、星空、みんなみんな過ぎ去ったものたちで、輝いて輝いて、流れて、きっと死んでしまった。いまはもうないものたちが、きらきらしていて、あんまりにもきれいで、悲しい。わたしが知らないだけで、きっといつかどこかで、うつくしい言葉、世界を救えるほどにうつくしい言葉が語られたはずなのに、その言葉は死んでしまって、いまはもうないから、わたしは知ることができない。わたしの生の屈辱を、すべて殺してしまえる言葉、音楽、文学、いつかどこかには存在したはずなのに、それがいまはもうないというだけで、わたしにはもう、届かない。星が光っていることは、わかっても、その星がどのように死んでいったかは、わたしには、わからない。足下にはたくさんの動物の骨、ゴミ、遙かむかしのまま凍結してまるで変わらない魚。現在っていつだ。現在って、いつだ。上も下も、死体だらけだ……。

■7
揺れるのはきらいじゃない。ゆりかご、いつまでも、わたしを包んでいてくれれば、いいのに。みんないやがるけれど、揺れるのはわたし、きらいじゃない。あやしてくれるのだ。抱いてくれている。体温の存在しない、肉の存在しない、腕。わたしはとても安心する。いつか死んだら、帰してくれよ。

■8
名前をつけて安心するのはもうやめることにした。ひとつひとつを明確に定義することなんてできないし、だったら個として扱うことなんてできないのだ。輪郭がわたしはいつだって大切で、それをなぞろうなぞろうと必死で、いまにも途切れそうなその細い線を結んだり接着剤でくっつけたりしながら撫でて舐めて抱きしめて追いかけ続けてきたけれど、その線はいつだってわたしを裏切って消えてしまう。このままひとつの円になるのだと信じた瞬間に端は切れてなくなってもうその線は二度と円になることができない。円になることができないということは囲って閉じこめてやることができないということで、それはつまり、定義付けできないということだ。わたしは、・あたしを、・ぼくを、・私を、定義づけしてやることができないということだ。わたしはわたしの中にあるたくさんの矛盾に、乖離した感情に、個々の名前をつけてやることで整理しようとした。わたしはわたしの在りようを、説明しようとした。それでも線はいつだって途切れて、定義しきれないままに新しい線として始まってしまう。あなたであると定めて固定してしまいたい感情が隙間から溢れだしてまた違うものに混ざってしまう。・あたしは、・ぼくは、・私は、結局それぞれになることができない。境界線は曖昧で、まるで違うものなのに、同一であることを否定しきれない。そう、だからね、結局、名前をつけて安心するのはもうやめることにした。わたしは、・あたしを、・ぼくを、・私を、わたしとして統合してやることにした。あるいはあたしとして、ぼくとして、私として、かもしれないけれど、それでもきみたちを区分することは、もうやめることにしたんだ。すべての混沌とした定義しきれない曖昧な内容物がわたしの中身で、だから輪郭だってこれですと言って決定稿を提出することはできない。その在りようを、許してやることにした。わたしは不連続な瞬間の集合である。定義付けすることなんてできない。風見鶏のようにあっちを向いたりこっちを向いたり、していて、しかもその一秒先には風見鶏ですらなくなってしまっている。でも、それでもいいよ。認めてあげることにした。あなたはそういう生き物だ。そして、あなたは、わたしである。もう、許してあげる。許してあげるよ。あなたが何者でもなく何者にもなれず名前すら定められないことを、許してあげる。名前をつけて安心するのは、もうやめることにしたんだ。

■9
 ひどく急な坂道を歩く。通いなれた道。視界の大半を占める古い家屋、屋根。狭い敷地内にぎっしりと詰まる建築物らは、それぞれの間にほとんど隙間をもたない。それらの建築物の間から、ほんの少しだけ、切り取られた赤い空が見える。夕焼け。陽の落ちるの時間が、いつのまにかずっと、わたしの記憶よりずっと、早くなっている。燃えるようなそれは、家の隙間から、こちらを覗いている。
 坂の上の公園で、子どもらが遊ぶ声が聞こえる。甲高いそれは、まるで悲鳴のようだ。だんだん近づいてくる声に顔を上げると、数人の子らが坂道を駆けおりてくる。競うように走るさまは、微笑ましかったが、そんなに急いだら転ぶのではないだろうかと心配する。しばらくその子らを見ていたが、案の定、先頭を走る子どもが転び、高い声で泣き出す。追いついた子らが、勢いを止めることができず、わずかに行きすぎ、しかしすぐに戻ってくる。泣いている子どもを、慰め始める。わたしはその横を通り過ぎる。
 坂道を登り続ける。いつも猫のいる家の前に来る。今日もそこには猫がいて、白い腹を見せて寝そべっている。気だるげなその様子を、すこし離れた位置から眺める。これ以上近づけば逃げるということを、経験則として知っている。猫はこの家の飼い猫ではなく、このあたりを縄張りにしている野良猫で、いつもここにいるのは餌をくれるおばあさんがここにソーセージなどを置くからだ。以前終電で帰宅したとき、スーパーの白いレジ袋から、素手でシーチキンやソーセージを取り出すおばあさんの姿を見た。おばあさんが歩くと、どこから現れたのか、たくさんの猫たちがぞろぞろとついてゆく。まるで大名行列だ。おばあさんは後ろを歩くわたしをちらりと見たが、すぐに興味を失って、猫たちに餌をやり始めた。猫たちがそれに群がる。おばあさんは、話しかけるでも、撫でるでもなく、ただそのさまを見ている。わたしはおばあさんの横を通り過ぎたが、おばあさんはわたしを見ず、猫たちもわたしを見なかった。あのおばあさんを、この猫は待っているのだ。なにもせずとも、そこにいるだけで食事にありつける。優雅なことだ。わたしは再び坂を登り始める。
 左手に公園が見え始めて、次第に坂が緩やかになってくる。わたしの住む安普請のアパートの、小汚い壁が見え始める。子どもらは坂を駆け降りていったので、公園に既に人影はなく、静まり返っている。わずかにあの子どもの泣き声が、風に乗って聞こえてくるばかりだ。
 わたしが出張で留守にしている間に、公園には遊具がいくつかできた。真っ赤な滑り台や、黄色い鉄棒。暗くなってから帰宅すると、わたしはいつも、その鮮やかさに驚く。どうしてか、どことなく後ろめたい気分になり、すこしおそろしく思う。人工的な色とフォルムが、暗闇の住宅街の中で、ひどく目立つ。わたしは異物だと、無言で主張し続けている。しかし、宵闇の中ではひどく違和感を抱かせるそれも、夕焼けの下では、ただ眩しく微笑ましいだけだった。どこかノスタルジアを喚起させる光景だった。子どもであったわたしの、かつての日々をぼんやりと思い返しながら、わたしはアパートの隣の家の前を通り過ぎようとする。しかしそれができずに立ち止まる。

 唐突に現れたそれが、わたしの足を止める。
 わたしのすべてを奪う。

 鮮やかで柔らかな香りが、わたしを包み込んでいた。わたしの肺のすべてを、無遠慮にその色に染めあげていた。その色は、夕焼けほど鮮やかに赤くはない、どちらかといえば、鉄棒の黄色に近い。しかしあそこまで彩度は高くなく、そう、柔らかな橙色、それを連想させる香り、
 ……ああ、これは金木犀だ。
 視線をやると、隣家の敷地からはみ出して、枝がいくつか垂れ下がっている。橙のちいさな花を無数につけて、自己主張の強い薫りを垂れ流し、わたしのすべてを染めあげようとしている。噎せかえるような、その薫り……。誰もわたしを妨げはしないのに、呼吸さえできなくなるような、息苦しいような、感覚に襲われ、いっそ目眩すら覚える。
 そうか、金木犀が咲いたのか。わたしが留守にしている間に、いつの間にか、この花が咲いていたのか。わたしが鞄に荷物を詰めて、太陽が昇るより早い時間に出ていったときには、まだ蝉が鳴いていたというのに。いつの間にか季節は、そこまで流れていたのか。
 金木犀の下、わたしは立ち尽くす。
 家々に切り取られた、真っ赤な夕焼けをただ眺める。
 わずかに聞こえていた子どもの泣き声が、いつの間にか笑い声に変わっている。
 目を閉じる。

 ああ、夏が終わる。
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