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いない


 堰のし過ぎで喉が切れたようで、真っ赤に染まった痰が出てきた。堰は止まらないし頭は痛いし節々は痛いし、体調は最悪なのだけれど、この忙しい時期にわたしは先日有給をとったばかりなので休んでもいられない。風邪を引くのは久しぶりなので、少し楽しいことも、ほんとう。ドラッグストアで、マスクとのど飴とパブロンを買って、もこもこの靴下を履いて眠って、朝起きたらいつの間にか剥がれていた冷えピタを捨てる。一人暮らしで体調を崩すと面倒を見てくれる人がいないので、三年前に熱を出したときは、とてもつらかった。そのときの教訓から、わたしの部屋には、レトルトのおかゆとウィダーインゼリーが常備されている。今のところ自炊をする元気もない、という状態にはなっていないので、まだそれらのお世話にはなっていないけれど、備えがあるというだけで気分はずいぶんと楽だ。もっと苦しくなっても、まだ、だいじょうぶ。

 有給をとったのは祖母が死んだからなのだけれど、叔父が死んだときと同じよう、わたしはまるで悲しくない。親戚一同が集まった広い和室で、泣いているひとたちを見ていると自分まで悲しんでいるかのような錯覚に陥るけれど、やっぱりそれはうそだ。泣いているひとを見ると悲しくなるのは泣いているひとが悲しいからで、それ以上でもそれ以下でもない。「顔を見てきてごらん」と泣きながら母や従姉が言う。「きれいな顔をしているから」。わたしは棺の中の死体を覗き込み、しかしそのことによって悲しくなったり、できない。一生懸命話しかけながら、花を入れ、棺に釘を打つ彼らを、うつくしいと思う。しかし同時に、それはただの肉だ、と思う。話しかけても無為だ。かつてそこにあった意思はとうに消滅した。死体に話しかけるという行為を芝居ではなくする彼らの、思考がわたしには理解できない。ちがう宗教で生きているのだろう。決してわかりあえない。わかりあえないけれど、きれいだ、とは思う。きれいで、無為で、まるで理解できない。ひとが死んだらそれはただ死んだ、それだけのことだ。悲しみは生者の問題で、死者のものではない。そもそも死者など存在しない。ただ生者の概念において、いまはもうないものを、その言葉で代替しているに過ぎない。
 親戚は泣いたり悔やんだりしながら、それでも久しぶりに会った人間たちに挨拶をしたり懐かしがったりする。久しぶり、お母さんにそっくりね、大きくなったね、お母さんにそっくりね。繰り返される言葉どもにわたしは膿む。その言葉がどれだけ憎いか、その言葉がかつてのわたしにとってどれだけの呪いであったか、現在も続く対象のない嫌悪を説明することはしない。できない。どれだけ言葉を尽くしても、わたしのこの憎しみを、彼らに理解させることはできないだろう。善良な家の善良な人々。死体に語りかけ、涙を零し、穏やかに微笑む。悲しみを押し殺して、挨拶を繰り返す。久しぶり、大きくなったね、お母さんにそっくりね。
 吐き気がする。

 求められる役割を繰り返す。求められる役割を繰り返す。

 死とは完全なる不在だ。どこにもいないし、もう二度と会えない。
 善良な彼らの信じているそれが、わたしには呪いにしか見えない。


 それが先月上旬のはなし。
 いま喉が痛いのは、たぶん、花粉のせい。堰もでないし、出ないからだから、赤い色の痰だって、出ない。風邪はひいていない。降ってくる花粉がひたひたとまとわりつくから、目を掻いたり、くしゃみをしたり、鼻水を垂らしたり。わたしの知らないわたしの内部が勝手に過敏に反応して、迷惑、ほんとうに自意識過剰。花粉だけじゃなくて、昨日はどうしてか雪だって降ったし、それに、春だから、憂鬱もずいぶんと降る。
 一月の末からひいていた風邪はほんとうに長引いた。一ヶ月ちかく引きずっていた気がする。ひさしぶりに内科にかかって、薬を処方されて、それを飲んでいたら、熱はひいた。でも、そのあともしばらく、堰が残っていた。喉が痛いし、背中も痛い。前半はちょっと楽しかったけれど、後半はあんまり、楽しくなかった。風邪をおもしろがれない程度には、消耗したということ。それっていやだなあ。たいていのことは、おもしろがりたいし、そういうことばっかり考えていたい。わたしの感情くらい、わたしが制御したい。感情を制御したり、感情に制御されたり、主従関係がわからなくなりながら、ただ渾然、わたしは曖昧なままでいたい。曖昧なまま、あらゆるものを、おもしろがっていたい。愉快だな、という気持ちがなくなるのは、いやだ。たとえすごく苦しくて、もう今すぐにでも死んでしまいたくて、そういうときでも、ひどい状態の自分を愉快におもうわたしのことは、失くしたくない。心臓に石を乗せられたみたい、なにもかもいやになって、呼吸だってしんどい、そういうときでも、小説にしちゃおうって笑ってへらへらして、いたい。わたしから乖離しているわたしのことを、わたしと呼んでいいのかはわからない。どこからどこまでがわたしなのか、よくわからない。でも、結局、わたしから乖離しているわたしをわたしはわたしだとしか呼べないから、わたしのこと、彼女のこと、失くしたくない。きらいなひとがいる。きらいなことがある。憎くて憎くて仕様がない。あなたが死ぬとわたしは嬉しい。日々、切々と、呪う。そうやって呪詛を積み重ねるわたしを、短絡的、そう言ってビラビラ、笑って、たいていのことはおもしろがっていたい。

 そんな寝言はどうでもよいのだけれど、プラの春ツアー「青の運命線」、横浜と京都に行きました。
 今回のツアー、好み。
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