スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スレイプニールの背骨

■1、僕のはなし
 なになにそんなに僕の話が聞きたいの?じゃあ話してあげる!
 えっとね。
 髪を切ってから思い出したのだけれど、僕はむかし、男の子になりたかった。小学生くらいのころだ。もし生まれ変わるのならば、ぜひ男の子になりたい、と思っていた。母が、ピアノの発表会用にひらひらしたかわいいお洋服を選んでくれたときも、僕はさんざん泣いていやがった。うすい黄色の、控えめなフリルの、かわいらしいワンピースなんて、僕は絶対に着たくなかったのだ。当時、僕の服のほとんどすべては兄や従姉のお下がりで、新しい服を買ってもらえるだなんて極めて稀少なイベントだったのだけれど、それでも僕はそれを拒否した。絶対に、着たくなんてなかった。
 結局その日は、デニムでできたカジュアルなツーピースを買ってもらった。飾り気がなくて、特別な日の服、といった風にはまるで見えなかった。事実、発表会以降、僕はなんでもない日にそれを着ていたように思う。発表会当日、うっすらと化粧をしてひらひらとしたドレスを着た女の子たちの中で、僕は明らかに浮いていた。それでも僕は、そんなこと、ちっとも気にならなかった。
 大人になった僕は、ひらひらのワンピースを好んで着るようになった。でも、いまの僕でも、あのときと同じ状況に陥ったとしたら、同じ選択をすると思う。だっていまでも僕は、化粧や帽子や、お気に入りのハイヒールや、そういったあらゆる細部に補助されてやっとひらひらのワンピースを着られるようになるのだから。そういったあらゆる細部を自由にできないまま、武器を持てないまま、ただただかわいらしいお洋服を着せられるなんて、惨めだ。似合わないワンピースと自分を鏡の中に見つけて、きっと死にたくなるだろう。あのとき泣いて抵抗した僕のことを、僕はえらいねと褒めてあげたい。手法はみっともなかったけれど、僕はきちんと戦って、僕の矜持を守り抜いたのだから。
 とりあえず、今日の僕のお話はこれでおしまい。今度は、ヘアピンの話をしてあげるから、待っていてね。バイバイ。

■2、遊んだはなし
 出張から帰って五日間は休みだったので、その間ずっと遊び歩いていた。わたしにとって遊び歩くことは飲み倒すことと同義なので、自業自得なのだけれど、ずいぶんと肝臓がつらい。中学校時代の友だちと会ったときは、気がつかないうちにワインを二本開けてしまったし、実家に顔を出したときも、料理をしながらずっと飲んでいた気がするし、貝波さんと会ったときも桜井さんと会ったときもKさんと会ったときも、わたしはずっとお酒を飲んでいた。
 貝波さんとは渋谷で会った。ずっと行ってみたかったフレンチに行こうとして、迷子になり、小雨の渋谷をさまよい、やっとたどり着いたと思ったら予約でいっぱいで、とぼとぼとお洒落なフレンチを後にした。帽子の欲しかったわたしが、帽子屋さんへ行くことを主張したので、わたしたちは連れ立って帽子屋さんへ行った。帽子屋さんの二階には、すごく大きなつばを持ったクラシカルな麦わら帽子があって、それが欲しかったのだけれど、庶民には手の届かない値段だったので、あきらめた。帽子屋さんへ行ったあとは、デニーズへ行って、お昼ごはんをたべた。貝波さんは豚と夏野菜をグリルしたもの、わたしは鰺のたたきをごはんに乗せて冷たいお出汁をかけたものをたべた。ビールを飲んで、ワインを飲んだ。まどかマギカのDVDを返してもらって、Plastic TreeのCDを貸して、後藤真希のDVDを借りた。あとから気がついたのだけれど、わたしが貸したPlastic TreeのCDには、中身が入っていなかった。彼女はきっと、思う存分ジャケットを愛でていてくれるものと思う。デニーズを出て、雑貨屋さんに寄ったら、お互いに電車の時間になったので、帰った。
 桜井さんとは新宿で会った。桜井さんは三〇分くらい遅れると言うので、三丁目にある「馬鹿とけむり」で、飲みながら待っていた。秋田の「ど辛」というお酒があって、名前がいいなと思って頼んだら、残り少ないからぜんぶどうぞ、と一杯+α飲ませてもらった。嬉しかった。定期的に「読みたいなあ」という気分になる「きらきらひかる」を読んでいたら、睦月が瑞穂にぜんぶ話してしまって笑子が泣いて怒ってついに両親もやってきて、というすごく盛り上がるところで桜井さんがやってきたので、なんて間の悪いひとなんだろう、と思った。でも、お菓子をくれたので、なんでも許せる、とも思った。お菓子だけじゃなくてお酒もくれたので、神さまかもしれない。でも、お酒ははるかむかしの新潟のおみやげらしかったので、そんなむかしのおみやげを今さら、なんてあきれてしまうし、神さまならきっとわたしをあきれさせたりしないし、だからほんとうは、神さまじゃなかった。ちなみにわたしも、一年前のおみやげを渡した前科があるので、やっぱり神さまじゃなかった。神さまじゃないわたしたちはお酒をもう二杯か三杯くらい飲んで、トマトと茄子のおひたしや豚の角煮、お刺身なんかをつまんだ。二時間たったら丁寧に追い出されたので、日比谷バーに行って、お酒をもう少し飲んだ。わたしはウイスキーとカクテルを飲んだ。ぐだぐだしてから、帰ろうか、と言って帰った。桜井さんは相変わらず、わたしの五分の一くらい喋った。
 Kさんとも新宿で会った。わたしがリリカルなのはの映画を見たいと主張したので、彼女はつきあってくれた。わたしは前日に宣言した時刻より二時間遅れて到着した。二時間も遅刻するわたしは、やっぱり神さまじゃなかった。そして、ぜんぜん怒らないで駅まで迎えにきてくれたKさんは、神さまかもしれなかった。神とそれ以外で連れだってミラノ1へ行って、チケットを買った。短い列があったので、それに並びながら、ハーゲンダッツをたべた。Kさんはストロベリー、わたしはクッキーアンドバニラをたべた。ハーゲンダッツをたべて、ゴミを捨ててから、真ん中の席に陣取って映画を見た。二時間半ある映画のうち一時間くらいは泣いていたので、顔はたいへんなことになっていた。それからレバ刺しを出してくれるらしいお店に行ったけれど、レバ刺しはなくって、打ちひしがれながらほかのものをたべた。Kさんはレバーが好きじゃない、ということを、わたしはすっかり忘れていて、あっこんなところにつれてきてごめん!と思ったけれど、Kさんは「たべられるようになったかも…」と言って焼きレバーをたべていたので、よかった。レバーのお店を出て、魚のおいしいお店へ行って、お酒を飲んだり魚やごはんをたべたりした。ごはんは、たべきれなくて、残した。大食いとしては屈辱的なことだし、なにより、お店のひと、ごめんなさい。すっかり眠たくなったので、バイバイと言い合って、帰った。なんだかずっと、たべてばかりいた。

■3、沖縄のはなし
 仕事でいま沖縄にいるんだけど、この時期の沖縄は暑いね。灼熱。これからさらに、もっと暑くなるのだろうけれど、もうじゅうぶん、灼熱。仕事の具合はあんまりよくなくて、先方の返答は芳しくないのだけれど、でも仕事が終わってからのんびりと海べりを歩いていると、そういったこともなんだかどうでもよくなる。どうでもよくなっちゃいけないんだけどさ。でも、とにかく、僕はいまそうやってゆったりしている。バーの、海の見えるテラス席の、隅っこに腰掛けてモヒートなんか飲んで、煙草を吸ったりしてね。BGMはさっきから、R&Bとボサノヴァが交互にかかってる。僕以外のお客さんたちはみんな連れだってやってきている。スキューバ帰りのひとが多いのかな。僕はあんまりうるさいお店はきらいだけれど、知らないひとたちの静かな会話がゆるゆると混ざって沈殿してゆくみたいな、そういう雰囲気のお店は好きだ。ここは、テラス席だからかもしれないけれど、いろんなひとたちの会話がいったん床に沈み込んでから、視界いっぱいに広がる静かな海に向かって雫れてゆくみたいな感じがして、いいな。僕は仕事でよく沖縄を訪ねるのだけれど、歩き方を覚えると、僕みたいにマリンスポーツとは無縁の人間でも、楽しいんだよね、南国。僕はペーパードライバーなので、もっぱらレンタサイクルで出かけるのだけれど、オフが一日あれば、十分いろんなところへ行ける。世界遺産を見るのもいいし、基地の周りで雑貨屋さんや古着屋さんをひやかすのも楽しい。お昼はホテルにこもってシエスタを決め込んで、日が沈む頃になってから、もそもそと起き出して海沿いを散歩するのもいい。一昨年は残波岬まで行って、夕陽をぼんやりと見たんだ。じわじわと沈む太陽が、海の中へゆっくりと、その色を吸収させていくさま、揺らめくさま、静かに朽ちるさま、そういった姿を見ていた。日の入りは好きだ。一日が死んでゆく光景が、あんなにも美しいなんて、しあわせで泣きたい気持ちになる。そしてそうやって日が沈んでも、また次の日には、必ず日は昇る。僕はそれがとても、とても神々しいことのように思えるんだ。死んでもまた生き返る。死んでもまた生き返る。
 ねえ僕には、いらないものが多すぎるんだよ。そのことについて君は、いったいどう思うんだい?

■4、煙草のはなし
 沖縄のはなしで、煙草という単語が出たから、煙草のはなしをしようか。
 このブログを書き始めたころにも書いたことだと思うのだけれど、わたしは嫌煙家だ。これは煙草に限ったはなしではないのだけれど、とにかく、嗜好品に依存している他者、というものは気持ちがわるい。それに、喫煙者は、仕事の途中でも「一服」などといって頻繁にいなくなるし、煙草が切れるとイライラし始める。小学生よりも遙かに自制のきかない生きものだ。それに、なにより、くさい。煙草のにおいは、気分がわるくなる。煙草の煙そのものも不快だし、煙草を吸っているにんげんの体臭も不快だ。あと、口臭。地獄のようなにおいがする。このような匂いに対して無頓着でいられるなんて、生物ではないのではないかと疑う。煙草なんて嗜好品なのに、それにすっかり依存してしまっているだなんて、犬のようだし、ばかみたいだ。体に対する悪影響、というよりは、他者に与える不快さがここまで明確に表現されるようになっているのに、未だに時や場所を弁えず我が物顔で煙草を吸っているにんげんは、旧人類だと思う。
 という主張を持っているわたしは、書いているからわかると思うけれど、喫煙者だ。吸い始めた動機は、職場の同僚の多くが吸っていたから。みんな吸っているから吸ってみたい、ということではなく、飲み会などの避けられない席で無神経な彼らの吸う煙を吸うのが不快で仕様がなくて、あんなくそやろうどもの副流煙を吸うくらいならば、自分で吸った方がましだ、という結論に達したため。煙草屋さんで、わたしでも吸えそうなものを買って、避けがたい喫煙の場に放り込まれた場合は、それをわたしのフィルターにした。
 吸い始めてずいぶん経つが、いまでも別に、煙草がなくてもぜんぜん困らない。でも、吸う場所は、職場の飲み会以外にも、少し増えた。それは、ライブ会場だったり、空気のきれいなところでお酒を飲んでいるときだったり。あと、喫煙者や元喫煙者の、煙草の煙に対して不快感を抱かない友だちとお酒を飲んでいるときもそうだね。なんというか、煙草には、適した場所があるのだ。お酒とおんなしで、嗜好品なのだから、あるべき場所で、適度に楽しむのがふさわしい。
 ここではなしを発展させて、それからまとめようとしたのだけれど、酔っぱらっているので、やめた。それはまた今度にする。
 その代わりに、わたしがずっと吸っている煙草のはなしをする。
 わたしが好んで買っている煙草は、レディローズという煙草だ。パッケージがきらきらしたビビットなピンクなので、すごく目立つ。あまり吸っているひとがいないので、知らないひととの飲みの席でも、話の種になるので、重宝している。わたしは先述のとおり、煙草が基本的に好きではないので、煙草らしくないこの煙草が好きなのだと思う。これ以外のものもたくさん試したのだけれど、基本的に、だめだ。だからわたしは、レディローズを持ち歩くようにしているのだけれど、消費するペースが半年に一、二箱程度なので、だいたいいつも、湿気っている。それに、煙草を買うという習慣がないので、たびたび買い忘れて、出先で困る。だからわたしは、仕事なりプライベートなりで知らない土地へ行くと、たびたびレディローズを探すのだけれど、だいたいいつも、見あたらない。たまに、レディローズは、非実在煙草なんじゃないかと、疑う。
 今日もレディローズは見あたらなかった。でもわたしは、特に困らない。海辺のテラスのカウンターで、一本吸って、なくなってしまったけれど、もう満足しているから、いらない。一本のレディローズは、きれいな空気に不純物を浮かべて、そのまま沈んで、そして海へ散っていく。モヒートを飲み終わったわたしは、ワインを二杯飲んで、いまはウイスキーを飲んでいる。ジェムソン。黄金色の、とろり。目を閉じて、それを舌先に乗せる。びりりと痺れる。あまく香る。海辺にいる。
 夏の夜だ。

■5、lynch.の「INFERIORITY COMPLEX」のはなし
lynch.の新しいアルバムの「INFERIORITY COMPLEX」を買った。わたしlynch.はライブばっかりが大好きで、曲ももちろん好きなのだけれど、でも、音源単独ですごくいいなあと思ったことはほとんどなくて、だけどでもこれはものすごくいい。好き。ちょうかっこいい。文句なしの最高傑作だと思う。PVはちょっとダサいけど、リフもメロディもかっこいいし、歌詞も前よりずっといい。タワレコのポップには、「音楽性の広がりを見せた前作と違い、激しさに特化した作品」とか書いてあったけれど、激しい、というのは少し違うように思う。激しいはまあ激しいのだけれど、このアルバムは、以前と比べてずっと、メロディアスで、ポップで、ドライで、タイトだ。あと、ドラマチック。以前のlynch.はもう少しウェットなバンドで、どろどろというか、ねとねとというか、そういうところがあったのだけれど、今回のアルバムはすごく乾いている。冬の、すごくさむい夜の、乾燥した空気を、カァンと突き抜けて響くさまが想像できる。それは感情的じゃなくなったというわけではなくて、むしろこれまででいちばん感情的なアルバムだと思うのだけれど、うーん、なんというか、感情をそのまま表現したのではなく、感情を音に置き換えて、きちんと曲にするプロセスを踏んでいるように感じられる。なまものの感情をそのまま差し出されるのではなく、きちんと昇華されて「音楽」になっている、という印象。だから一曲一曲が散漫でなくタイトにまとまっていて、クオリティが高い。あと、これはむかしからだけれど、すごくうるさいのにとってもメロディアスだ。それに、シャウトも聞きやすくて、ポップ。(わたしの使う’ポップ’はいつも褒め言葉。)ヘヴィで、なおかつ、ポップだなんて、素晴らしいじゃない。あと、それから、このアルバムは、ちょっぴりドラマチックだ。わたしは本人たちのインタビューなどは読まない質なので、(こだわりがあるわけではなく、単に面倒くさいので)ほんとうにそうなのかどうかはわからないけれど、震災を受けて書いたのかな、と思われる曲がいくつかある。それと、タイトルになっている、救いがたいほどの劣等感。それらが絡み合って、血反吐を吐いてでも這ってでもなにを失っても進む、進まざるを得ない、それ以外の選択肢がない、という絶望的な希望へと向かってゆく。lynch.の曲はネガティブなワードをたくさん含むけれど、本質的なメッセージが強烈にポジティブで、どこまでも貪欲で、わたし大好きなのだけれど、そういった部分が全面的に出ているアルバムだと思う。ちょっとなんかもう、大絶賛である。仕事のせいで今回のツアーはまだ一本も行けていないのだけれど、「今年の夏は遠征禁止」という自分への誓いなど軽々と破って、京都と奈良へ行きます。大好きだよ、と伝えたい。あなたたちの音楽が大好きだよ、あなたたちの音楽にまみれてぐちゃぐちゃに気の狂うほど踊ることが大好きだよ、そう伝えたい。

■6、日記と小説のはなし
 つい先日、とても個人的な小説を書いた。小説なんていつだって個人的に決まっているけれど、その中でも特に、ということ。それは限りなく日記に近くて、でも日記ではない。日記ではなく小説である、とわたしが言う理由は、その文章に多くの虚構が組み込まれているから、ではない。だって虚構なら、日記にだってたくさん、組み込まれているもの。だからそういうことではなくて、あれが日記ではなく小説であるという唯一の根拠は、それを書いていたときのわたしの意識が、それを日記ではなく小説であると認識していた、それだけ。わたしが日記だと思えばそれは日記であるし、わたしが小説だと思えばそれは小説なのだ。つまり、両者に差異なんてない。それらはいずれもわたしが書いた文章であり、純粋なノンフィクションではない物語で、そうであるのならば、わたしはもっと、自由になってもいいのだ。こういった方式で書いたから日記なのだ、とか、こういった手法で書いたから小説なのだ、とか、そういった些末なことは、もう、考えなくてもいい。日記も、小説も、変わりないのだ。だって両者は等しく、わたくしである。両者が等しくわたくしであるのならば、その境目など、わたしの一存で決めて構わないし、わたしの一存で決めて構わない程度のものなら、ほんとうは、存在しやしないのだ。誰かがわたしの小説を読んで「これは日記だ」と言ったり、誰かがわたしの日記を読んで「これは小説だ」と言ったり、したとしても、それらの一切はわたしの文章とは関わりがないし、そして同時にそのいずれもが真である。いずれも、同じものなのだ。変わりなんてないのだ。
 そんな風に思うようになった。
 わたしの日記とわたしの小説はどのように違うのだろう、ということは、もうずいぶんと長いこと考えていたことで、それについての実験を、わたしはいくらかしていた。たとえば二〇一〇年十二月六日の「スタンダップシスター」や二〇一一年十月十二日の「ぶっちぎれ」の■9、二〇一一年十一月二日の「世界の輪郭を作るアクリル板に触れる、それは絶対でないことを知る、折れそうなほど、頼りなく、透き通っている。」の前半などは、小説の手法で日記を書いたものだ。でも、結局、それらはやはり日記にしか見えないし、小説だと言われれば小説かなと思う、というようなものでしかない。だから、境界線を引くのは、定義を求めるのは、名前をつけて安心するのは、もう、やめることにしたんだ。
 わたしはもっと自由でいい。
 自分の日記や、書きかけの小説を、さいきん一気に読み返した。すごくおもしろい。ようやっと、わたしのナルシシズムが復活してきた。どうか自意識よ、もっとわたしを過剰に愛して、そしてどうか、文章を。わたしの生に文章を。わたしの生に意味を。音に言葉に無意味な意味を。
 まだだ。まだ早い。まだ幕を下ろすには早すぎるんだ。
 わたしはまだ生きていける。

■―
それでもどうせまたすぐに「もういいかなあ」はやってくるのさ。それでも死なない限り、僕は生きてゆく。死ぬまでは終わらないのさ。残念なことにね。
スポンサーサイト

空想の街、僕のシエスタ


「あなたは私のとても大切な帽子を奪って笑って駆けてゆく。
 それはとても酷くて悲しいこと。」

 その日はあたし朝からずいぶんと緊張していた。前の晩は二時までずっとお酒を飲んでいて、そろそろ眠ろうと思ってお店を出たけれどホテルへの帰り道で迷子になってなかなか帰りつけなくて、やっとの思いでたどり着いたホテルのエレベーターでは少しこわい思いをして、滑り込むようにホテルの一室に駆け込んだんだ。夜中の三時にシャワーを浴びて、軽くなった髪の感触、少し前に変えたシャンプーの匂い、そういったものたちに、今さら戸惑ったりした。バスタブに熱いお湯をためて、コンビニで買った入浴剤を入れて、ゆっくりと浸かった。眠らなくては、そう思っていたけれど、なかなか眠れなかった。それでもなんとか、こころを決めて、すっかりぬるくなってしまったお湯から出て、おざなりに体を拭いて、ベッドに転がった。とても気に入って買ったtsumori chisato sleepの、緑の花柄の下着が、頼もしい防具のように思えて、少しだけ落ち着いた。電気を消すのはいやだな、と思ったから、明々と電気をつけたまま、うつらうつらと眠った。一時間おきくらいに目が覚めるから、窓の外が白くなって、ぼんやりと朝が来て、時計の針がぐるぐる回って八時がやってきても、あんまり眠った気がしなかった。しなかったけれど、ふしぎと眠たくはなくって、あたしはそのまま起きることにしたんだ。趣味は睡眠、眠ってばかりの普段のあたしからは、それはとうてい考えられない出来事で、だから、やっぱり、その日はあたし朝からずいぶんと緊張していたんだ。
 もう一回シャワーを浴びて、ろくに乾かさなかったせいで前衛的な造形を描き出した髪の毛をむりやりリセットして、丁寧にブローして乾かした。あたしのいまの髪の毛は、丁寧に乾かしてきちんとセットすると、おにぎりみたいな三角形になる。今回の出張にはヘアアイロンを持ってこなかったから、完全な三角形にはならなかったけれど、ドライヤとスプレーを駆使すると、それなりのおにぎりになったので、あたしはそれで満足した。それから、冷やしておいた缶ワインを飲んだり、奮発して買った一粒二百円するチョコレートをかじったりしながら、ゆっくりとメイクをした。
 チェックアウトのぎりぎりまで、ホテルでメイクをしていた。
 外に出ると、六月の平日の真昼のひかりに、目が眩んだ。雨なんて一滴も降っていなくて、すっかりと晴れた青空で、Ne-netの白いTシャツからにょきりと生えたあたしの腕たちは、じりじりと焦がされていった。前日にタワーレコードで買った「くちづけ」を、ピンク色のCDウォークマンで聞いていた。「雨音を聞いていた鍵盤を叩くような」「呼吸する心臓がざざ鳴りに重なれば」「鮮やかな透明で流れ込む雨」「さよならは胸の奥やまないで雨」。落下するひかりが痛くて目を伏せて歩く。太陽を乱反射するアスファルト。イヤホンの奥から雨が聞こえる。晴れ渡る青空。
 駅でおみやげを買って、お寿司をたべたら、することがなくなってしまった。いろいろしよう、あまり来ない街なのだし、前日まではそう考えていたのだけれど、青空の下を歩いていたら、あたしすっかりその気もなくなってしまった。この街に来て美術館にも文学館にも行かないなんて信じられない、前日までのあたしがそう言うけれど、でもそんなこと、この瞬間のあたしには無理な相談だった。あたしは朝から緊張していたし、空は六月にふさわしくなく青色に澄み渡っていたし、イヤホンの奥からは雨が聞こえ続けていたんだ。
 お茶屋さんでほうじ茶を飲んで、ぼんやりとした。禁煙だったので、持ってきたレディローズを鞄に仕舞った。二階で硝子細工の展示をしていたので、それを見た。メールが来たので、返信をして、読み差しの文庫本を開いた。ヘッセの「シッダールタ」だった。おもしろいな、と思って読みながら、どうしてヘッセはまったく同じ話を違う話として書き続けたのだろう、と思った。読み終わったので、もうずいぶんと長居をしているし、出よう、と思って、出た。ほうじ茶はとてもおいしかったので、お会計のときに、可愛らしい缶をふたつ選んで、実家に送った。外へ出ると、やはりひかりは白くて、ずいぶんと落下してくる。網膜が焼ける。痛い。今度は紅茶屋さんを選んで、中国のお茶を飲んで、ぼんやりとした。やはり禁煙だったので、持ってきたレディローズを、やはり鞄に仕舞う。「シッダールタ」を読み終わったので、サリンジャーの「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」を読んだ。紅茶を淹れてくれた女のひとは、常連らしい女のひとと、話をしている。紅茶と一緒についてきた砂糖菓子とクッキーをたべる。おいしい。でも、お昼のお寿司でおなかがいっぱいになっていたので、胸やけがする。お茶屋さんでも、ほうじ茶と一緒に出てきた、葛餅をたべた。おいしかった、胸やけがした。どうしてお茶だけを持ってきてくれないのだろう。機械的に紅茶を胃に入れる。メールが来たので、返信をする。
 落ち合うのは、煙草を吸えるところがいいな、と思ったので、煙草が吸えそうだなと思った喫茶店へ移動する。二階のお好きな席へどうぞ、と言われたので、二階のお好きな席へ移動する。開け放たれた窓から、通りが見えて、心地よい。文庫本を開き、ブレンドを頼んでから、灰皿のないことに気がつき、困惑と恐怖につつまれながら、店員さんに「禁煙ですか?」と尋ねる。店員さんは、無情にも、「禁煙です」と言う。あたしは犬のように呻いたけれども、移動する気力など残されてはいなかったので、そのままそこでコーヒーを待つ。なにしろ外は、すっかりと晴れているのだ。持ってきたレディローズを、鞄に仕舞う。メールを送信する。
「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」を読み、このひとたちも随分と困難なことだな、と考えていたら、あたしの座っている席から見える喫茶店の入り口に、軽そうで(性格が)軽そうで(頭が)軽そうな(物理的に)男女ふたりがやってきて、いちゃりいちゃりとしながら店内に這入っていくのが見えた。まさかこのひとたちではないだろうな、と戦慄しながら固まっていると、彼らはあたしのことなどまるで意に介さず、あたしの隣のテーブルに腰掛け、お茶を飲み、ひとしきりいちゃりいちゃりし、去っていった。あたしは安堵して、ため息をついた。
 一回お手洗いに行って、あぶらとり紙で執拗に油を取って、再び階段を上がった。携帯を確認すると、メールが来ていたので、返信をする。背の高い男のひとと、背の高い女のひとが、階段をのぼってくるので、このひとたちだったらいいな、と思いながら文庫本を開いた。そうしたら、背の高い女のひとが、「こんにちは」とか、たぶんそういうことを話しかけてきたので、あたしはすっかり訳が分からなくなってしまって、まともに彼らの顔を見ることもできないまま、窓際のテーブル席に置いてあったコーヒーやパンパンに膨れ上がった旅行鞄、そういったものを、彼らの座っているテーブルまで持っていった。彼女があのとき、どういった言葉であたしに声をかけてくれたのか、あたしはだから、ぜんぜん覚えていない。とにかくもうどうしていいのかわからなくて、とりあえずあたしは、彼と彼女の向かいのソファに座った。由比良さんとみかさんは完全にイメージ通りで、彼と彼女が語る言葉たちを人間の形に作り替えたとしたらたぶんこういう形になるのだろうな、という想像の通り形で、もしかしたらぜんぶあたしの妄想なんじゃないかと疑えるほどに、そのまんまだった。
 喫茶店でなにを話したのか、ぜんぜん覚えていない。
 全員おんなしブレンドの深煎りを頼んで、飲んで、煙草が吸えないね、煙草が吸いたいね、と言った。あたしはぜんぜん、ふたりの顔を正面から見ることができなくて、彼らの手元ばかりを見ていた。みかさんはtsumori chisatoの、猫の形の金具のついた鞄を肩からかけていて、細い首の横に、緩いウェーブのかかった髪の毛が、ふわふわと揺れていた。行儀良く並んだふたつの膝が、白や薄い橙、生成、そういったさまざまな柔らかい色を丁寧に混ぜて受け止めたパレットのように、並んでいる。膝の皿、お皿だものな、そう、お皿だものな、とあたしは頭のすみっこで考える。彼女の膝は、まったく、お皿のように正しい。そうして、お皿のように正しい膝から目線をスライドさせてゆくと、陶器みたく白っぽい、ざらりとしていそうな、長くてまっすぐな指に会う。神経質そうで、体温が低そうで、美術室のデッサン用の、石膏像に似ていた。詩を書いたり、ギターを弾いたりする専用の指です、そう説明書きがついて、飾られているさまを想像した。川端康成の「片腕」を思い出した。そうやって彼らの細部ばかりを、あたしは見ていた。
 そうだ、マグカップの話ならした。コーヒーの入っていた器が可愛らしくて、陶器っていいよね、という話をしたら、彼らはマグカップはひたすらに増え続けていく、と口をそろえて言った。「形がよくて、飾るといいな、と思ったり」「おまけでついていたり」、するのが、たまたまいつもマグカップなのだと言っていた。あたしは自分ではあまりマグカップを買わないけれど、大切な友だちのくれたマグカップを、とても気に入って使っている。その話は、したのだったか、していないのだったか。あたしはほんとうに、喫茶店での会話を、ほとんど覚えていない。
 煙草を吸えて、お酒の飲めるところへ行こう、そういう話になって、みかさんはまるで重力など存在しないかのよう、軽やかに、喫茶店の棚に置いてあった雑誌からお店を選び、電話をかけ、席が空いているか、煙草は吸えるか、という質問をしてから、予約をした。喫茶店を出ると、やはり太陽は白くて、髪を切ったせいで無防備になったあたしの首の裏を、無遠慮に焦がした。空は青くて、高い。駐車場へ行く途中で、みかさんに「身長何センチあるんですか」と尋ねると、彼女は笑いながら「162センチです」と言った。ヒールで高いだけですよ、と笑う。同じ身長であることにびっくりして、なんとなく嬉しくて、あたしも笑う。あたしもヒールを履いたときは、あんな風に背が高いのかな。でもあたしは、あんなにまっすぐきれいには、歩けない。
 みかさんの運転する車に乗って、駅の近くのお店に着いた。お店は一軒家で、低く音楽が流れていて、いくつかの絵が飾られていて、薄暗かった。二階に通されたから、奥のソファの席に座った。三人にぴったりな広さだった。もっと詰めれば、四人、もしかしたら五人、それくらい座れるのかもしれなかった。でも、ぽつんぽつんと独立して、それでも干渉し合うような、適切な距離間を保つには、三人が最適だった。つまり、そのソファ席は、三人に最適だった。押したら店員さんの来てくれる、魔法のボタンもあるし。あたしは声を出して店員さんを呼ぶことが苦手で、もちろん、必要があればそうするのだけれど、でも、そうする必要のないお店が好きだし、だからその魔法のボタンは、すばらしいものだった。魔法のボタンは、はそりと押すと、ひどく無愛想な男のひとを呼んだ。ひどく無愛想な男のひとは、にこりとも笑わないまま、単語のみを発し、あたしたちにメニューやお酒や料理をサーブした。あたしたちはそれがおかしくって、男のひとが階下へ降りてゆくたびに、こっそりと笑い合った。男のひとが運んでくれるお酒や料理は、どれもおいしかった。あたしは今回の出張の、行くお店行くお店で、笑わない店員さんに出会う話をした。彼らはやはり、笑ってくれたように思う。九州で出会った、笑わない店員さんのことを思い出す。彼女は丁寧な言葉で話し、洗練された所作で動き、そしてちっとも笑わなかった。彼女の運んでくれたお酒も料理も、やはりおいしかった。意味もなく正体不明の笑みを浮かべているひとたちは、常にあたしにとっておそろしいものだから、いっそ安堵したことを覚えている。
 みかさんは、車を運転して帰るので、お酒を頼まなかった。彼女がいちばん最初に頼んだ飲み物はなんだっただろうか。二番目のインパクトで薄められて、もうすっかり忘れてしまった。由比良さんはバンブーというカクテルを頼んでいた。バンブー。バンブーという言葉の響きがおもしろいし、見たことがないからわくわくして、おもしろかった。あたしは最近ずいぶんと緑色が好き、キャベツみたいな色、かわいくて、という話をしたら、由比良さんは神妙な顔で、僕もちょっと前に緑ってずいぶんといいなと思っていた、と言った。運ばれてきたバンブーは、ちっともバンブーの色をしていなくて、おかしかった。
 喫茶店だけじゃなくて、このお店でも、なにを話したのか、ほとんど覚えていない。みかさんがストロベリークリームソーダを頼んだことだけは、よく覚えているのだけれど。ストロベリークリームソーダは、むつかしいくらい鮮やかなピンク色で、世界に挑戦しているのかな、と思えて、戦慄した。てっぺんに乗った、みかさんの膝とよく似た色のアイスクリームが、ぐずぐずと溶けていって、鮮やかなピンク色をまろく変化させていって、そのさまは美しかった。みかさんは、「かき氷のいちごシロップの味がする!」と言って、「どうぞ!」とあたしにグラスを渡してくれた。あたしは実際、興味津々だったので、ぱっとそれを口に含み味わい嚥下して、そして叫んだ。「かき氷のいちごシロップの味がする!」。みかさんは、由比良さんにも「いちごシロップの味がするよ!」と飲ませようとしていたけれど、由比良さんは、「だいたいわかるから、いい…」と首を振っていて、でも、結局、飲まされていた。かき氷のいちごシロップの味がする。
 バニラアイスクリームがぐずぐずと溶ける。
 あたしの乗らなくちゃならない電車の時間が近づいてきたので、お店を出て、駅まで歩いた。駅はほんとうに、すぐ近くだった。電車はダイヤが乱れていて、あたしはどれに乗ったらいいのかよくわからなくて、駅員さんに質問をしたりしながら、改札をくぐった。改札をくぐる前、みかさんはおみやげにゼリーをくれた。鮮やかなオレンジと、艶やかな葡萄。ぱんぱんに膨れ上がった旅行鞄と、宝石みたいなゼリーの入った紙袋、それらをぶら下げて、あたしは電車に乗った。バイバイ、と手を振って、別れた。小学校の、仲良しの友だちとするように、バイバイと手を振って、別れた。
 ばかみたいな話なのだけれど、確かに彼も彼女もあたしはずいぶん前からメールのやり取りをして知っているのだけれど、でもだけど、もっとずっと前から、ほんとうにむかしから知っているみたいに、懐かしい友だちに会ったみたいに、馴染んで、安心して、話をすることができたので、幸福だなあと思った。そういうことを考えていたら、みかさんが、前からずっと知っているような感じがした、というメールをくれたので、すごく嬉しかった。
 ああ、そうだ、思い出した。彼と彼女は、どちらも、横向きに滑らせて点火する、銀色のオイルライターを持っていた。ライターをすぐ失くしてしまうあたしは、百円のライターでレディローズに火をつけながら、格好いいな、と思って、それを見ていた。それから、帽子の話をした。帽子はいつもなくなってしまう、どれだけ大切にしていても、必ずなくなってしまう、そういう話。あたしは江國香織の「ホテル・カクタス」を引き合いにだして、帽子とはさすらうものなのよ、と言った。
 六月の、港町の、雨の降らない晴れた夜だった。
 イヤホンの奥からは、雨が聞こえ続けていた。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。