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思えば思えば

 今いる街は仕事で縁がありわりあい訪れることが多く、さらに言えば過去に住んでいたこともあるので、それなりに馴染みがある。しかしこの街にはよい思い出がほとんどなく、だから都合の悪い記憶をすいすい消去してゆくわたしには、関わった時間のわりには記憶の割かれている分量の少ない街、ということになる。今回の出張でも暇な時間に街をぶらぶらしたのだけれど、あまり楽しいこともなく、酒や飯に関しても無難か外ればかりを引きました。一軒だけ、良心的な値段でシングルモルトを多種類置いているショットバーに出会い、少し嬉しかったのだけれど、頼んでみれば、オンザロックがひどいし、接客も気の抜けた感じだったので、総合的に見ればやはり外れなのでした。わたしはどうもこの街と相性が悪いなあと考えるのだけれど、こんなに長く付き合っているのに好きになれないなんて、それは少しさみしい。小さい頃から、好意の返報性を利用した自己保身のためか、関わらざるを得ない身近な人物に対して、客観的評価を排した好意を抱きがちなわたしなのだけれど、それでもこの街のことは愛せない。つまりそれだけ隔たっているのだ。その圧倒的な距離、わたしが人生のすべてを全力疾走したところで届かないであろう圧倒的な距離は、やはりなんだか、さみしい。焦燥なども抱けないほど、圧倒的に隔たったものへの感情は、なんだか不思議な色をしている。大好きでも大嫌いでも、手が届かないものに対して向けられる望遠の心持ちは、どうやら共通なようであるなあ。わたしにとってこの街は、なんだか夜空の星より遠いよ。

 話は変わるけれど、わたしは怒りの瞬発力が弱くて、見過ごすことによって個人の尊厳が損なわれるような怒るべきときでも、一分~一日くらいたたないと怒れないことが多い。たいていの場合、自分が怒っていることを自覚した時には、既にタイミングなど逸している。だから本当は頻繁に怒っているのに、職場では気の長い人ということになっていて、奇妙だ。
 この怒りの時差は、半分くらい、わたし自身が努力によって育ててしまったものです。つまりあまりにも気が短すぎたので、一般社会でちゃんと生きていけるよう、人格改造をしたのでした。そのきっかけは自身の怒りに正当性のないことがある、と気がついたことで、この小学生くらいから知っているひとも多い事実をわたしが知ったのはずいぶん遅く、当時は恥ずかしくて床中をごろごろ転がり回りたい気持ちでした。とにもかくにも、それ以降わたしは、せっせと自身の怒りに対して懐疑的な姿勢を取り続けたのだけれど、そうしたら今度は、最初に述べたように、怒るべきときに怒れなくなってしまったんだよね。今度は怒る練習をしなくちゃならない。難儀なことだなあ。
 そうやって色々な訓練をしなくてはならない現実世界と違って、文章というものは一般的に、あまり瞬発力を要さないので、助かります。文章なら、もともとタイムラグがあって当然なので、時差など気にせずぷんすか怒れる。たぶんこの特性によって、文字の中のわたしは、必要以上に怒りっぽいのではないかな。しかしこれは自分で検証したことのない仮説なので、しばらくはこのことについて考えてみる。
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これが僕の愛だ

 また出張。ようやっと時間ができたのでひとりで飲みに出て、見つかった小さなバールでお酒を飲みながらご飯を食べる。取り立てておいしくもない、ありちなバールだけど、ものすごくまずくはないし価格帯も悪くない、特に文句はない。すべてにおいて味が異様に濃いけれど、安い酒を飲むと考えればそんなに悪くはない。濃い味の食べものは酒が進むし、酒自体に陶酔するほど味わうべき魅力がないのならば、それで構わない。店員もこっち来いとじいと見つめればわりと早く来るし、応対は気負いすぎず乱雑でもない。テーブル席もカウンター席も椅子が教室の椅子のよう・堅くて座り心地が悪い・でもそういうのは、嫌いじゃない。
 わたしの座っているカウンターの後ろで、女のひとが三人、より集まってくつくつ話をしている。
 子どもを生むこと、子どもを育てること、そういったことについて彼女たちはヒートアップしている。ひとりが年輩で、その他のふたりは彼女より幾分か年下であり、そして年下のふたりは同期であるようだ。遠慮なく意見をぶつけ合うところから、ずいぶんと親しい間柄、あるいはそういった性格の上司に対して調子を合わせることに慣れた関係であるように思われる。彼女たちの会話を聞きながら、わたしには縁遠い世界だな、と思う。どんな風に世界が回ろうとわたしは子どもなど生むつもりがないし、生んだところで絶対に愛せない、その確信がある。この確信は、もしかしたら、彼女たちの信じている愛や希望と同じ代物であるのかもしれない。だとしたらわたしの確信はわたしにとって唾棄すべきもので、ていうかね、「だとしたら」などと言葉を濁したけれどどう考えてもこれらは同値、同値で、それなのにどうしてあたしは彼女たちを憎らしいと思うのだろうか?信じているものが違うだけで、在り様は同じなのだ。様式が同じだけで内容が違えば異なるものなのだ、と断言できれば、こんなことも感じないのかな。どうして世界はこんなにも、立ち位置だけで色を変えるのだ。不公平だと思う。あたしだって美しい立ち位置で世界を眺めれば、幸福になれるのだ、そんなことは知っている、でもそうやって美しい立ち位置で世界を眺めるのはわたしではないと、そんな存在はもはやわたしではないと、わたしがわたしの立ち位置に対してひどい拘泥を執着を示すことはどうしてだろうか。わたしは不自由だ。
 正しく生きる、なんてことはできない。絶対にそんなことはできない。わたしを嫌悪したあの子に、わたしが顔を背けたあの子に、そうやって伝えたい。あなたたちの信じる美しく正しい世界は絶対に来ない。あなたたちがそうなれる未来も、絶対に来ない。それは絶望に値することなのか?あなたたちはなにを求めているのだろうか。
 希望を追求するのであれば死ぬしかない。そんなことは自明の理ではないのか。希望を追求できないあたしはこうやって今も息をしている。たったそれだけのこと。たったそれだけのことなのに。

白々しい朝と大発見について

 久しぶりにふーさんと遊んだ。恵比寿のbonでケーキを食べて、吉柳で酢もつやカレーを食べて、始発までカラオケで歌って、別れた。恵比寿のビックエコーは、三時間歌っただけなのに九千円弱のお金をわたしたちに要求したので、首都はこわいね、と怯えながら言い合った。首都はこわい。
 カラオケでは彼女がボーカロイドの曲をたくさん歌ったので、わたしはアニソンをたくさん歌った。でも最後には、ふたりでDの「闇より暗い慟哭のアカペラと薔薇より赤い情熱のアリア」を熱唱した。闇薔薇のころのDは僕らの青春である。ところで青春って概念はこわいね。青春って言葉を平然と使う人は全員こわいし、言葉の響きも、字面もこわい。
 ビックエコーを出て、人間の女ごっこをしながら駅まで歩いて、それぞれ山手線の上りと下りに乗って、別れた。去り際、彼女はわたしにパンをくれた。どうしてだろう。ファミマのソーセージパンだ。食べられなかったから、と言っていたが、取っておいてあとで食べればいのにな。でも受け取ったので、あとでありがたくいただく。ファミマのソーセージパンは、こわくない。
 外を歩くと、ずいぶんと寒い。昨日は寒くなかったのにな。またしばらく仕事漬けになって、気に入っている私服などろくに着られなくなるからと、あまり寒くないけど着てみたjane marpleの楽器柄コートが、昨日は暑かったのに今日は丁度いい。おそらく僕らが恵比寿のこわいビックエコーに引きこもっている間に、世界はスイッチを切り替えていたんだろう。世界はいつだって、わたしの知らないところで、スイッチを切り替える。こわい。
 そしていま、小説を書き上げるまで帰らない、と念じながら、わたしは近所のスタバでコーヒーを飲みながらポメラと向き合っている。誰に頼まれているわけでもないのに、どうしてわたしは勝手に期限を定めて、ねむたい瞼をこじ開けて、徹夜明けの朝に小説なんて書いているんだろう。意味がわからない。しかも結局、あまり進まなくて、逃避で日記なんか書いている。自分の謎の行動原理も、小説が進まない事実も、こわい。こわいので、病気になって、寝込んで、明日会社に行けないかもしれない。病気になって、寝込んで、会社に行けないと、いいな。でもほんとうはその願望は嘘で、わたしは独り身で、自分でお金を稼いで自分で家のことをしないと生きていけないので、ほんとうは絶対に病気になんてなりたくない。心の底から仕事をしたくないのに、仕事をしないと生きていけない。生きていないと、小説を書くことができない。それはとてもこわいことだ。生きていないと小説も書けないなんて、びっくりなことだ。驚天動地の事実だ。ううむ、生きるって実は大切なんだな。

わたしにあなたの痛みをください

 198円のほうれん草と128円の小松菜が並んでいたら、例えほうれん草の方が好きでも小松菜を買う。
 にんにくとオリーブオイル、ピーラーで薄く削いでそれを更に刻んだニンジン、それらと一緒に炒める。128円の小松菜を炒める。白ワインとバルサミコで風味付けをして、塩コショウで味を調える。
 安い赤ワインを飲みながら、それを食べる。
 おいしい。
 わたしは満足する。満ち足りたわたしの生活。

 憎んでいることも、忘れそうだ。昨日のことも思い出せない。
 腹を立てた。苛立ったんだ。でも今はそれを思い出せない。諦めたのか?達観のつもりか?人と人との話であるのだから、常に最善が選ばれるわけもなく、誰しも変調は常に抱えていて、だから瞬間的な不快感が消え去ることはない。しかし、だからこそ、それを理由に他者を唾棄することがあってはならない。そうやってわたしはわたしを調教したのだろう、そしてその成果が出たのだろう。でもそれは、正しいことであってもそれは、正しくないわたしが正しくない手法でやり遂げたことなら、やはり正しくないのだろうか。だからこんなに空しいのだろうか。完全に忘れ去ることでしか、憎しみを消すことはできないのだろうか。
 頭を空にする。
 なにもわからなくなる。
 わたしが怒っていたことも、憎んでいたことも、絶望していたことも、思い出せなくなる。
 すべては過ぎ去ることだ。

 黒い液体を啜る。コーヒーはおいしい。しかしわたしが今こうやってコーヒーを飲んでおいしいと感じる理由は、かつてわたしがコーヒーをおいしいと言って飲む他者に憧れていたからではないのだろうか。わたしはコーヒーをほんとうにおいしいと思って飲んでいるのだろうか。ほんとうの××、という言葉は常に疑わしい。わたしには難しすぎる。理論は見えない。証拠は失う。わたしはいつだってすべてを忘れ去ってしまう。
 免罪符をくれ。

 わたしにあなたの痛みをください。

名を惜しむ鳥だけ

「自分が傷つけられた手法を用いるのならば他者を傷つけても構わない」という考え方のこと。
「わたしもかつてそのようなやり方で傷つけられたことがあった。当時わたしは苦しかった。しかし今ではそうやって傷つけられたことに対して感謝をしている。なぜならばそのことによってわたしは成長したからである。だからわたしもそのやり方を用いる」という文脈を以て語られるそれが、わたしにはおそろしく感じられる。どうして「わたしもかつてそのようなやり方で傷つけられたことがあった。当時わたしは苦しかった。だからわたしは同じやり方を用いないようにしたい」とならないのか、わたしには理解できない。「しかし今では~成長したからである」までは妥協するとしても、どうしてそれで「わたしもそのやり方を用いる」になるのか、そして最終的に「そのやり方によって成長できないものは精神力の足りないものなので淘汰する」となるのか、わたしにはとうてい理解できそうにない。「傷つく」という過程を経なければ受け入れることもできないのはどうしてだろう。どうして傷つけないやり方では認められないのか。時間をかけて丁寧にやるのはいけないことなのか。
 組織とはシステムだと思う。しかしひとの集合である以上、完全にシステマティックにはなれないとも思う。だから排斥される存在の出てくることならば理解できる。スケープゴートはひとの集合にとってどうしても必要なのだろう。しかし組織はひとであると同時にシステムでもある以上、排斥される側にも手は差し伸べられるべきであって、個人個人の主張などには関わらず、役割として理解者・導き手を用意すべきであって、しかしそれすら許容しようとしないのはどうしてだろう。あるはずのそれが機能しないのはどうしてだろう。
 わたしはあの子がきらいだ。あの子に限らず、会社のひとはほとんどきらいだ。しかしこの感情やわたしの思想に関わらず、あの子のそばに誰もいないのであれば、わたしはあの子の話を聞こうと思うし、場合によっては支援をしようと思う。ディベートの組分けのようなものだ。それは必要なことだとわたしは思う。しかしわたしの手を引く他の手がある。こちらへおいでと言う。きみもこちらへおいで。仲間に入っておいで。あんな子のために頑張る必要はないから、こちらへおいで。一緒に排斥しよう。
 根気強くあの子の話を聞いていたあの子の直接の上司は、排斥してしまえという声に対して、「でも自殺でもしたら……」と呟く。それに対して、「自殺なんかするたまじゃないですよ」という声が返る。
 自殺なんかするたまじゃないですよ。それはどういう言葉なのだろうか。自殺をしたひとの事例を知っているのだろうか。自殺をしたひとの傍に、そのひとはいたことがあるのだろうか。傍にいたひとが自殺してしまったことが、その過去が、そのひとには、あるのだろうか。自殺という言葉に果たしてどのような解釈を与えているのだろうか。「自殺をするひと」と「自殺をしないひと」の違いを、条件を、根拠を以て明示できるのだろうか。できないのならば、どうしてそのような発言ができるのだろうか。
 いっそ自殺をしてしまえよ、とわたしは思っている。そうしたらあのひとはどんな顔をするだろう。自分の言葉に対して、どのような感情を抱くだろう。それとも、自分の吐いたそのような言葉は、とっくに忘れてしまっているだろうか。そして「いっそ自殺をしてしまえよ」と思っているわたしは、やっぱりあの子の味方では決してなくて、しかし組織にある以上、味方の役割をするパーツも必要だからそれをこなすことに対して抵抗はない。心情などどうでもいいのだ。

カメレオンの腹

 美しいものはみんな好きだって言うけれど、そうなのかな。
 人はみんな心の中に神さまを持っていて、誰しもが神さまに救われて、それゆえに神さまに支配されている。その構造自体の善悪も、それぞれの神さま個体の善悪も、わたしには判別しがたいけれど、わたしたちはいずれにせよなにかを信じているし、信じなければ生きていけない。なにかを信じることに失敗して、世界と自分の座標を失うと、死んじゃうくらいしか自分を固定する方法がないから、だからやっぱり、生きていくことはできない。僕たちは言うほど自由が好きなわけではない。縛られたい。固定されたい。わたしを定義してほしい。
 つい先日、書きかけの長い小説が入っているポメラを駅でなくして、途方に暮れた。その小説はおととし書き始めたもので、実のところ言うほど長くはないのだけれど、つきあいが長いので、なんとなく文章まで長い気がしている。わたしにとって書くという行為は自己を明確にすることと等しく、だからその長い小説の喪失は、ここ三年の自己の喪失に等しい。ポメラには他にも、無数の断片が貼りつけられていて、だからそれをなくしたとき、僕は僕をすっかり見失って立ち尽くした。死体のような心持ちになって、途方に暮れた。あたしを(世界を)切断して繋ぎあわせた世界は(あたしは)失われてしまった。あれがあったからあたしは世界とあたしを「これ」と「これじゃないもの」として(互換性があるにせよ)定めてやることができたのに。基準は失われた。あたしはあたしをどうやって定めてやればいいのだろう?
 結局、ポメラは親切なひとに拾われて、わたしの元へと帰ってきたのだけれど、あのときの安堵はちょっと、説明しがたい。ポメラをなくしたわたしは、途方に暮れて、打ちひしがれていたけれど、なんだかんだでこれからどうするべきかを考えていた。これまでの積み重ねを失っても、結局わたしは文章を書くことはやめないのだから、新しいポメラを買わなくちゃいけない。お金のことを考えていた。意外と平気なものだ、そう考えていた。しかしポメラが手元に戻ってきたとき、わたしは歓喜に打ちふるえて、泣きそうになって、そして泣きそうになった自分にびっくりした。意外と平気なものだ、と思っていたのに、実はぜんぜん平気ではなかったのだ。ねえ、それはつまりね、ポメラの中にあたしが詰まっているってことだよ。こうやって五本の指を使って打ち込む文字のひとつひとつにあたしが詰まっているってことだよ。あたしはゆっくりと削り取られていくの。削り取られて文字に変換されて記憶媒体の中で眠る。あたしはあたしを携帯しているのだ。そしてあたしがポメラをなくしたとき、あたしはあたしの一部を失い、しかし失われた一部のあたしはもう既にあたしの手元にないのだからあたしには認識できなくてだから別に平気でいられて、でも失われた一部のあたしはほんとうはなくしちゃだめなものだったから取り戻してほらこんなに、こんなにも、安堵する。大切だったのに大切だったことも忘れてしまうっていうのは、防衛規制の一種なのかな。僕はうまく言えない。言えないのだけれど、こうやってばらばらに切り刻まれていろんなところに保管されているあたしたちは、切り刻まれてはいるけれどほんとうはひとつなのだから、やっぱりなくしてはいけないんだよ。そう思う。
 以前、使っていたパソコンが壊れたとき、ぽつりぽつりと書いていたいくつかの詩はぜんぶ死んだ。そのときも悲しかったけれど、失われた詩のために絶望するなんて気持ちはまったくなくて、なんとなく復調したわたしは未だに新しい言葉で新しいことを語る。でもほんとうは、あのとき死んだ子たちはほんとうは、手放してはいけないものだったのではないだろうか。あたしは永遠に彼らを、彼ら的なものを、手に入れることはできないのではないだろうか。
 こわい。
 まあ要するに、バックアップは大切だよね、という話なんだけどね。
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