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うさぎ飼い殺しの刑

やりたいことがたくさんあるのにぜんぜん消化できていない夜で、室内で異様な存在感を誇っている洗濯物を眺めながらどうしてこんなことになっているのかなあと考えたり、あとはお酒を飲んだり。やりたいことがたくさんあるのにぜんぜん消化できていないっていうのはたぶん大半がお酒のせいで、仕事をしていないときはたいていお酒を飲んでいるのでそれがいけないんだよなあ、お酒飲むと眠たくなるし、あたまはたらかないし、と思うのだけれどお酒はおいしいし明日もお昼からお酒を飲みに行く約束をしています。お風呂上がりでぽかぽかした体のまんまでディスプレイの前に鎮座してマッサージチェアにごりごりと腰を揉んでもらって、お酒はうまい、眠たくなってくる、twitterの言葉たちがつらつらと流れ去ってゆくのを眺めている、サロンの隅っこでお喋りなひとたちを眺めているような気持ちになって、ぼんやり、たとえば細くてきれいなフルートグラスを持っているみたいな、気持ち、言葉のささめきがしゅんしゅんと空間に生まれては消えて通り過ぎてゆくのだけれどひとつひとつの判別はつかないし意味を理解なんてしていない、退屈にも似た、贅沢さ、こんな風に時間をつかって生きてる、労働して生活を買っている、ねえしあわせだな、しあわせだな?さいきんはこのあいだLUSHで買ったcelebrate body lotionっていうとってもそのまんまなネーミングのボディローションを使っているのだけれど、これがなんだか絶対にどこかでおんなし香りをかいだことがあって、なんだったかな、どうしても思い出せない、なんにしてもよい香りであることに変わりはないからぺたぺたと脚に塗りたくっておやすみ、わたしの体はわたしの体だけでは維持できない、かわいいね。
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ミートパイのいらない日

 あのね、レディローズが生産停止になっちゃったんだよ。かなしい。わたしは煙草なんてきらい、とずっと言い続けてきて、実際きらいで、でもレディローズはすきだった。
 毎日吸うわけじゃないし、だいたい消費量は一月〜二月で一箱くらいだったから、たとえば中毒的な切実さでそれを欲求したりはしない。でもね、中毒的な切実さではないからこそ、あたしはあの煙草を嗜好品として、本来あるべき丁寧な姿勢で愛していたし、自分で自分の姿勢に満足もしていた。あたしの愛は適切で、正しかった。でももうそれもなくなっちゃうんだね。かなしいよ。レディローズを吸い始めてもう八年かな、それくらいになるけれど、だからその八年の間にあたしの嫌悪はだらしなく摩耗してもしかしたらもう煙草きらいじゃないのかもしれないな、と思って、レディローズの代替に成り得るかもしれないと思った煙草をいくつか試してみたりもしたんだよ、でも、そのどれもがやっぱり、だめだった。きらいだった。やっぱりあたし、煙草はきらいなのだった。レディじゃないなら、もういらないよ。自己主張のつよい香りも、ふしぎな吸い口も、けばけばしいピンク色のパッケージも、そのすべてをあたし好ましく思ってた。さようなら、大好きだったよ。

 *

 世界泥棒の単行本を買いました。装丁がきれい。再読したので、感想はもう書いたのだけれど、自分用のメモとして追記。
 この小説は、登場人物がふたりしかいません。ふたりっていうのは、語り手のあやちゃんと、あとはその妹だけ。基本的に、登場人物はこのふたりだけ。他にもいっぱいいるじゃない、なによ、って言われるかもしれないのだけれど、でもやっぱりわたしは、登場人物はこのふたりだけなんだと思う。意味ちゃんや柊くんたちは妹という集合の中に含んでいいと思うし、百瀬くんは、独立した存在というよりは、あやちゃんに対するアンチテーゼなのだと思う。だから、存在するのは、あやちゃんという主体がまずひとつ、そしてそれに対する他者として存在する妹、そのふたつだけ。
 いろいろ咀嚼して書きたいことがたくさんあるのだけれど、考えがまとまらないので、またこんど書くね。まどまぎの感想も書きたいんだよ。まどまぎ超おもしろかった。

815

 本を読んで泣いたので、少しすっきりした。仕事ばかりしていて余裕のない中、ほんのわずかな空き時間を縫い合わせて一冊の小説を読むので、少しずつしか読めないし、おおっぴらには泣けない。十ページだけ読んで、本を仕舞って、トイレに行って、少しだけ泣いたりする。一人で部屋に籠もっているときのように、感情を隠さずに吐き出して、ゴミ処理のように潔く、捨て去ることはできない。そこまですっきりすることはできない。しかし、制限のある中で為されるささやかな積み重ねは、しんしんと溜まる苛立ちや憎悪や浅はかな絶望や、そういったものが明確な形を成すことを確かに妨げている。歯磨きとか、足ツボマッサージとか、そういう類のものに似ている。食べかすを排除して虫歯を予防したり、老廃物を排除して疲れを軽減したり。わたしはたぶん、こうやって本を読むことで、最悪を免れている。
 わたしはちゃんと昇進したり、結婚したり、そういったことをしなければならない人種なのかもしれない。そういった囲いを作って、社会における自分を定義して、常に自分を正していかなければならない人種なのかもしれない。わたしは自らを律することができない。社会通念や倫理に照らし合わせて、まっとうな位置に自らを律することができない。だから、囲いを作って、責任を引き受けて、そのことによって自らを正していくべきなのかもしれない。
 でもそうやって成形された輪郭の中に、おとなしくおさまっている物体は、その実体は、内実は、いったい誰なんだ。それはほんとうにわたしなのか。そうやって成形されたあとのわたしは、現在のわたしと、ほんとうに連なっているのか。わたしは過去の連続性を信用しない。だからそれがわたしであるとも思えない。
 生きることに向いていない。でも生きていたい。かなしい。

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 上のは二、三日前に書いた日記。
 下のはもっと前、一、二ヶ月前に書いた日記。

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 あたしは、芸術とは抽象的であるべきだと思っている。また、芸術とは虚構であるべきだとも思っている。芸術とは、あらゆるすべてに対して開かれていなければならない、と思っているから。
 現実は無数にあって共有できない。あたしたちは個別に分断された無数の現実の中に取り残されていて、それを共有することができない。現実と現実を連結するための接続部はとても限られていて、際限なくすべてを繋げてゆくことはとうてい不可能だ。遠すぎる現実は、覗き見ることすら叶わない。でも、そうやって分断された現実に閉じこもるあたしたちは、しかし、虚構ならば共有することができる。虚構にはどこからでもアクセスできるし、それは虚構であるがゆえに、あらゆる現実に妨げられることがない。
 だからなんなのよって言うと、うーん、要するに、あんまり現実味を帯びた、社会的な主張を前面に押し出した創作はあたしあんまり好きじゃないんだよね、っていうことなのでした。people in the boxの「Ave Materia」を聴いているのだけれど、ちょっと現実的なメッセージ性が強すぎて、あたし苦手かもしんない。「八月」は好きです。
 あたしの大好きな映画の「ひなぎく」は、でも、とても社会的なメッセージ性の強い映画だ。さっきと言ってること違うじゃない、なによ、って感じだけど、これにはとても単純な答えがあって、つまりあの時代のあの戦争は、あの社会は、あたしにとって決して現実ではないのだった。あたしはあの映画に込められた切実なメッセージを読みとらない。ただ映像の美しさ、言葉の美しさ、二人の女の子の刹那的な享楽とそのかなしさ、それを受け取るばかり。それは例えば、正しい見方ではないのかもしれない。でも、あたしは、残っていくものとはそうであるべきだと思う。あらゆる切実な、切迫した生々しい現実が消滅して、あらゆる意味や意義が濾過されていって、最終的に、作品だけが残る。それがもっとも美しいと、あたしは思うのよ。
(あ、社会的な主張ではない個人の感情が前面に押し出された創作は、とても好きだよ。だって、他者の感情って、現実じゃないもの。他者の感情は、現実ではなく虚構だ。あたしたちは決して、他者の感情を完全に理解することなどできない。あたしはあなたの感情を、あたしのものとして、完全に理解することはできない。だからこそそれを、虚構として共有するのさ。ねえ、永遠に理解し得ないという事実は、現実は、その言葉は、希望の表現であると、あたしはずっと言ってきたじゃないか。)

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 じゃあ、今日の日記。

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 先週の月曜日、写真館ゼラチンさんの個展に行った。
 わたしはPlastic Treeのファンなので、彼女の写真は、その過程で自然に知った。わたしは写真という表現形態が特別好きなわけではないから、あまり積極的に写真を見に行ったりする方ではないし、いわゆるアングラ界隈がそこまで好きなわけでもない。あたしはポップでわかりやすいものを愛してる。だから彼女の写真も、とても好き、大好き、というわけじゃない。彼女の写真のすべてがとても好き、とは言えない。でも、彼女の個展は、見に行きたくて、実際に見に行った。それは、彼女の写真は、ときどきはっと目を覚まさせられるような、なんだろう、ふしぎと胸をつく、でもそれは爽やかで清涼なものではなくて、もっと違う、おまえはどこを見ているんだ、どこに立っているんだ、なにを愛しているんだ、それを思い出させてくれるような、ひよってふらふらとしているときに糾弾、……違うね、糾弾というような直接的で親切なものではなくて、「へえ、そうなんだ」というような静かな視線、を感じさせるからで、なんだろう、自分の座標を見直したいときにひとつの示唆であるから、なのだと思う。
 わたしは、わかりやすいこと、誰にでも見せられるものであること、ポップであること、に非常に強い価値(高い価値、ではない)を感じていて、それは、大衆的であること、他者に迎合すること、とは違うものだ。でもね、それらはたびたび混同されるし、わたしもけっこう見失う。そういうときに彼女の写真を見ると、(ほかにもいろんな指標があるのだけれど、)ああなにお前そんなつまらないところに足をつっこんで転んでるのね、みたいな視線を勝手に(そう、勝手に!)感じることができて、だからそこが好きなのだと思う。
 彼女の写真は、陰影がくっきりとしていて、モチーフはとてもベタ、アングラとか少年少女と言われてすぐに思い浮かぶようなものを撮っていて、分かりやすいといえば分かりやすい。でも、ときおり唐突に視線がぶれるような、焦点を揺らがされるような、不安定さを感じさせて、わたしはそこが好きだ。輪郭がくっきりとしているのに、どこかはぐらかされるような、なにか騙されているような、そんな感覚に陥らせてくれるところ。そこが好きだ。見えているはずなのに見えていないような、とてもあからさまなのに見抜くことができない嘘をつかれているような、そんな錯覚に陥らせてくれる、その明確な曖昧さが好きだ。

 ……というのはわたしの勝手な解釈で、写真を撮った本人がなにを表現したくて作品を作ったかということとはまるで関係ない。彼女がなにを訴えたいのかということをわたしは知らないし、だからわたしの感想はわたしだけのもので、わたしの解釈はどこへも行けないし、どこに届くこともない。そして、それゆえに、なにものにも阻害されることがなく、わたしと作品の関係性は、その圧倒的な孤独ゆえに、どこまでも自由だ。
 わたしは基本的に、作品と作者は隔たった存在だと思っているし、そうあるべきだと思っている。だからなにかを見るときに作者の意図を気にすることはないし、わたしの感想が作者のメッセージから遠く隔たったものになっていても、ぜんぜん気にならない。(基本的にはね。わたしここ最近は、ぷらつりに対して、それができなくなった。彼らに対してだけは、たぶん以下に書いてあることが適用されない。それは彼らの音楽に対して誠実でなくなったってことなのかもしれない、と思う。インタビューとか読まないで、彼らの意志などまるで無視して、作品だけを楽しんでいられたらよかった、今でもそう思って、すこし後悔している。)作品とはひとつの独立したコンテンツで、ただぽつんと、孤独に存在する力を持っているべきだ。そしてそれを受け取るとき、わたしたちもまた孤独で、なんの武装も持たないたったひとりになる。その静けさをわたしは愛しているし、大切にしたいと思っているし、そしてそれこそがわたしの信仰する正しさだ。
 わたしたちは個別の、誰とも交われない、ひとりひとり。
 音楽も絵画も文学も、それぞれに性質があって、そこになにを求めるのか、どこで受け取るのか、どうしてそれ欲求するのか、そういった目的や理由がそれぞれに違う。でも、それらに共通する、決定的に共通するたったひとつの事実があって、それらはすべて、とても個人的なものだということだ。江國香織の「ホテル・カクタス」がわたしはとても好きなのだけれど、登場人物(人物?)のひとりである帽子のせりふに、「音楽は、個人的なものだな」というものがある。それと同様の静けさ、さみしさ、そして贅沢さとして、わたしは絵画と文学にも、同じ孤独を感じている。感じているし、求めている。わたしたちはそれらの前で、たったひとり、ぽかんと立ち尽くして、どうしようもない自分の姿で対峙するべきなのだ。

 友だちが文藝賞をとって、雑誌に小説が載って、もうすぐそれが単行本になる。わたしはそのことが嬉しい。わたしは彼の文章がずっと好きだったし、だからそれが評価されることが嬉しい。でも、その嬉しさと、わたしが彼の小説を読んで面白いと思ったこととは、関係がない。わたしが彼に対して抱いている親愛や尊敬は、彼の作品と、まるで関係がない。ねえ、そのことを、喜ぶことはできないのかな。わたしはこれが正しいと思っているし、わたしがこのようにいろんなものを切り離して考えることを、大切にしたい。それが誠実ということだと思うし、音楽を、絵画を、あるいは文学を、愛して必要とするということだと思う。
 価値なんて変動する。解釈なんて一定じゃない。誰がなにを訴えたくてそれを生み出したかなんて、世界にはなんの関係もない。わたしたちの前にはただ完成された作品や過去や事実だけが存在していて、それだけがどこまでも残っていって、現在を流れてゆくわたしたちは、それゆえに、現在を流れてゆくあらゆるものと関係することができない。作品の向こうにいる誰かと、なにかを共有することはできない。作品は時間と無関係だからだ。だから時間に縛られたわたしたちは、作品の向こう側にある失われた時間を、知ることができない。できないし、する必要はない。他者は作品ではなく他者であって、だから定義することはできない。

 ……まとまらなくなってきたから、やめるね。以下は個人的なメモ。わたしは誰かと関われるということを未だに信じていなくて、関わるということをもしかしたら暴力と捉えているのかもしれなくて、だから、作品を媒介にしてしか世界を見ることができないのかもしれない。作品は、ただ独立した、作品であるだけのものだから。作品と向き合うことは、自分の内部と向き合うことと等しくて、そのための装置としてそれらを扱うことを、わたしは否定していないのだと思う。そしてその暴力性ゆえに、それらを個人的なものだ、と言っているのだろう。そしてそれを暴力と捉えているから、それを他者に対して適用することができない。するべきではない、と思っている。そういうことなんだろうね。

 *

 いつものワインバーで茄子のマリネとポトフをたべて、白を二杯、赤を一杯のんだ。いつもの、って書いてもあれか、ブログには書いたことなかったかな。この店ね、最近できたの。近所に。何回か行って、気に入ったから、ふらふらと通っている。マスターの作るごはんがおいしいし、適度な距離感の接客が気持ちいいし、バーテンさんの作るオン・ザ・ロックやカクテルがおいしい。遅くまで開いているところもいい。
 ああ、ねえ、やだな、ふんわりとするよ。明日は仕事だよ。自転車の前輪がパンクしてしまったから、バスと電車を使って出勤しないといけない。早起きしなくちゃだめだなあ。こうやって文章と向き合っていても、そう、こうやって自分と向き合っていても、リミットはやってくる。生活が差し迫ってくる。わたしにはなにもない。だからただ、生きるためだけに生きること、そのために必要なタスクを、こなさなくてはならない。わたしはわたしを長らえさせるためだけに、わたしを続けなくてはならない。
 ぼんやりとする。

 *

 815っていうのは、ポメラに保存してあった、このファイルのタイトル。たぶん、八月十五日にこの記事を書き始めたのだと思う。
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