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マトリョーシカバリアなんだよ

呪詛のかたまりみたいになっていてあんまりよくない、一日に十回ははやく死にたいなとおもうし一日に十回はおまえらぜんいん死ねっておもう、でも短絡によって至る死ってがっかりな感じだしそういうのやだなーとはおもうので早めに脱したい状況ではある。ところであたしは「死にたい」という言葉をこれまでインターネット上で使わないようにしてきて、三週間前?の記事ではじめて使用したのだけれどもそれはいちおう意図的にその言葉を避けてきたからです。だって死にたいってあまりにも直接的すぎて死にたい以外の感情が想起できないしつまり想像の余地がない、言葉の威力がつよすぎて文章が負けてしまう、薄っぺらくなってしまう、からでだいたい死にたい死にたいなんて言われても、あっそうなの…えっとどうしようかな〜とりあえずおはなし聞いた方がよいの半笑い、みたいなみたいな、感じの対応にあたしだってなっちゃうしなんていうかファニーが足りない、そうおもしろくない、人生おもしろおかしく生きたいと常々おもっているあたしとしてはできるだけ触んないようにしときたいアレってゆうか。いやまいにちまいにち死にたい死にたい書いていてかつすごくおもしろいひとはいるんだよ、死にたいという直裁的な言葉に敗北しない死にたみ一色に満ちてつよくうつくしい文章を書けるひとはいるんだよ、でもあたしはそういうの書けんし。つまりだからあたしがその言葉を使ってしまったらつまらんし。あとなんつうか、このブログ読んでいる友だちとか知り合いも数人いるのでそのひとたちに余計な心配かけるというか、だいじょうぶ心配だよ〜みたいな言葉をちょうだいちょうだいしているみたいでみっともないっていうか意地汚い愛を乞う犬、そんな感じでいやらしいよね〜反吐が出るぜ!死ね!死なないよ!ん〜そんな感じで死にたいって言葉ちゃんは一回使ってみたらやっぱりあたしが思っていたとおりの効果をもたらしたのでこれ以上は安易につかわないようにしておこう。ぶいぶい。いやこないだも安易に使ったわけじゃないんだけどさ。あの瞬間のあたしにはね。でもあとから振り返ればどの瞬間のあたしの死にたみも振り返るあたしの存在、つまり現状生きているあたしの存在、によってその切実さはかき消されて安易さだけが残るのだ。安易〜。
そう切実。きのう使った切実さという言葉、それは長いことあたしがたびたび気にしてきたことなのだけれど、もうぶっちゃけ他者のそれをはかることはできないよね。地雷なんて踏み抜いて踏み抜いて足吹っ飛んでそれでも僕らは進んでいくしかないんじゃないの前に進め兵隊、そんな感じで。だからぶち抜かれてぶち抜かれてそりゃもちろん地雷だからぶち抜かれたら身体吹っ飛ぶし痛いし辛いからスルーしたりはできないんだけどまあ仕方ないじゃん、そういうものだよ、なんてしばらく時間が経ってあるていど回復したらそうやって自分を騙すこともたいせつなのだ。生きるということは鈍感であるということで、だってそうじゃないひとたちはすぐ死んじゃうんだもの、あるいはそもそも生まれてこなかったのかもねいいなあ、なんておもいながらとにかく素晴らしく鈍感にさいこうに図太くあたしはいなくちゃならんのだ。いまのところはね。切実さ、切実さ。あたしにとってのそれはたとえばヘッセとか安吾とか賢治とかぷらつりとかピアノとかにぎゅっと詰まっているのだけれど、とにかく大ダメージを受けたときはそれらにどっぷり浸かって自己修復をはかるにかぎる、切実なものとは切実なものであるがゆえにそれと真剣に向き合うと自分が忘れていたりうっかり手放したりしていた自分に回帰するという効能があるもののとにかく見ていてつらい、読んでいてつらい、聴いていてつらい、のつらいこと三拍子でたいへんつらく、でもそのつらみちゃんの向こう側に新しいあたしが待っているのだ〜ハッハ〜。酔ってないよ。
だからちょっと前はひたすらヘッセとか安吾とか読んでたんだけどさいきんはカポーティなんか読んじゃって、ティファニーで朝食をはやっぱり春樹の訳がすきだな〜それにしてもホリーはほんとうに迷惑だな〜魅力的だな〜迷惑だな〜なんておもいながらハイボール飲んじゃったりもして、それなりに平和がかえってきているのでした。それなりにたいせつにしているそれなりにすきなものをそれなりに楽しめる精神状態って大事だ。あたしってそれなりに平和だ。だから呪詛のかたまりだけどまあ多少回復の傾向にある、これからしばらくはそれなりにたいせつでそれなりにすきなものたちをそれなりに楽しんでいたい。ところで、それなりに、とつけられるくらいライトにすきでいるものたちの存在は、それらの数が多ければ多いほど、いつまでも根っこにあって離すことのできない見つめることのつらいほんとうにたいせつなものたち、と匹敵するくらい、あるいはそれの一部をなすような、まあるくあたしを取り囲み守る外殻でありそれはとても、切実な。
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しっちゃかめっちゃか

教養ってなんだろう。文学じゃないことだけはわかる。なんて言いながらも文学もきちんと勉強してうんちくを語れるようになって一節をそらんじたりできたらやっぱり教養なのかな。この世に存在する莫大な量の書籍を端から端まで読み尽くすことはできないし、だから有名どころはとりあえずひととおり読みたいかなとおもうけれど、有名どころの定義は読めば読むほど広がっていくばかりでぜんぜん追っつかない、追いつけない、小説はわたしをたすけてくれるけれどわたしは小説を把握することはできないし、ただ読むだけならばくだらないジャンクフード、劣悪な消費、それだけで終わってしまって、でもわたしは頭がわるいからきちんと読んでいるとやっぱり置いていかれるばっかりで追いつくことができないよ。
わたしは本がすきなので、さして本がすきなわけじゃないんでしょ、本がなくったってあなたべつに生きていけるんでしょ、という相手がさも本を愛しそうに語っていたりすると顔面にごきぶりをぶん投げてお尻を蹴っ飛ばして倒れたところに大量のとろろをぶっかけてしまいたくなる、でも「さして本がすきなわけじゃないんでしょ、本がなくったってあなたべつに生きていけるんでしょ」なんてわたしの感覚に過ぎなくて、だからわたしもそういう風におもわれて顔面にごきぶりをぶん投げられてお尻を蹴っ飛ばされて倒れたところに大量のとろろをぶっかけられてしまったりしてもなにも言えない。切実さ、というのはそのひとそのひとの細かい部分にひっそりと隠れているのであって、外部からは観測できない。だからあらゆるひとは平然と、だれかにとって切実なものをぶち壊しながら日々日々呼吸をしているんだよ。あなたは(だれかは)わたしをめちゃくちゃにするし、あなたは(わたしは)だれかをめちゃくちゃにするし、だれかは(わたしは)あなたをめちゃくちゃにするし、わたしは(あなたは)だれかをめちゃくちゃにする。めちゃくちゃにするんだよ。誰かにめちゃくちゃにされたとき、わたしにとって切実でたいせつなものをそれにさして触れたこともない愚鈍で思い上がったバカにめちゃくちゃにされたとき、でもそれにたいして怒鳴りつけることができない。こわい。世界はしっちゃかめっちゃかだ。入れ子式の世界の突破口をずっと探しているのだけれどいまのところ見つけられていない。
なのに、しっちゃかめっちゃかということばは、かわいい。

穏やかに少しずつ至る

ライブの備忘録を書いていたので、ライブについて考えていた。
わたしが大好きでどうしても欲しがってしまうそれは、その瞬間にしか存在できない圧倒的かつ不可避の蹂躙で、わたし(たち、つまりあらゆるすべてのオーディエンス)をまるで手段のように利用しきって踏みにじって消費しきる暴虐、あるいは、わたし(たち、つまりあらゆるすべてのオーディエンス)の存在などまるで関知せず神の目線で一方的になされる征服、のようなもの、で、わたしはそこに交歓や交流を求めてはいない。演者側にはわたしたちのすべてを蹂躙しつくす理不尽な独裁者でいてほしいし、その確固たる理不尽さによってのみ発生する瞬間にしか存在できない不朽の城、ただの一瞬しか顕現することができず、しかし観た聴いた体験した人間の意識に一生消えない傷を残すような、信じていたものに突き落とされるような、遥か高みから見下す無感動な無慈悲な目のような。
めちゃくちゃにされて置き去りにされたい。圧倒的な断絶を見せつけられたい。たぶんそれが望みのすべてで、わたしは世界とはまるで無関係に存在するバグのような錯覚のような白昼夢のような空間だけを信じている。それは感覚だけの世界で、理論など存在せず、現実からはるか乖離した透明なうつせみ。

3000字くらいPlastic Treeについて、主に武道館ライブについて、書いていたのだけれど、まとまらなかったので消した。それについてはまたいずれ書きます。
まとまらないけど放っておくとわたしは忘れてしまうので、とりあえずメモだけ。
アニバーサリー。記念。思い出。その価値が最たるものになってしまうこと。内容よりも思い入れが先立ってしまうこと。そこには(一方的であるにせよ)関係が生じてしまっていること。それまでの布石、歴史、によって流れる涙、その場所で完結するのではなくその場所以外に存在する物語を必要とすること。それを足がかりにすること。他者を物語的に消費すること。それは音楽ではないということ。蹂躙はその「物語的消費」の外に存在すること。純粋であること。誰をも省みない、一方的で強圧的で独裁的で、無遠慮で不躾で無神経な、関係すらできない高見の死角から降ってくるもの。そこでただのひとりになること。共有する、共感する、つながる、そういったものから乖離してただひとりで向き合うこと。音楽は確かに人によってもたらされる、でもそこに人はいないということ。混乱と轟音の中の静けさのこと。関係できない、圧倒的な断絶によってこそそれを自分だけのものとして所有できること。ひとつの空間において、わたしたちは分断され完全なるひとりひとりになるということ。STAND ALONE COMPLEXとか、そういうこと。

✳︎

二、三年前はまだところかまわず喧嘩を売って歩いていたとおもうから、あのころと比較したらずいぶんと老けたのだとおもう。すきでもないひとに意見など言わなくなった。そしてそれすらもう、信じられなくなってきた。わたしいつも簡単に、すきなひと、なんて言うけれど、でも、わたしがすきだとおもっているひとたちのことをわたしはほんとうにすきなのだろうか。自覚はある、わたしはすきだとおもっていた方が楽な相手に対して、わたしはこのひとがすきなのだと自分を騙す傾向にある。防衛機制の一種なのだとおもう。たとえば実家にいたときの父とか、就職したてのころの教育係や上司とか。わたしの環境を左右しうる人間のことはすきでいる方が楽だから、すきなひとの言うことをきいているとおもった方が楽だから、わたしはこのひとがすきなのだと自分を規定する傾向がある。わたしはわたしを騙しすぎたから、もうわたしのことが信用できない。利害関係のないすきなひとたちのことだって、わたしはほんとうにすきなのかどうか、なんだかもうよくわからない。わたしは誰かをすきになったことなんて、ほんとうはただの一度もないのかもしれない。そんなまともな感情は、ほんとうは一ミリだって持っていないのかもしれない。わたしはなにをおもって、なにを感じているんだろう。わからない。もうただ誰宛でもない言葉をどこでもない場所に吐き出し続けるbotにでもなった方がいいんじゃあないのか。わたしの感情につきあっていると、わたしは疲弊する。どうすればいいのかわからない。

✳︎

わたしたちはいきなり死ぬんじゃないよ、からだが生きているうちからすこしずつ死んでゆくんだよ、徐々にその思考を硬質化させて、固着して微動だにしない死という状態へと固定されてゆくんだよ。だからもちろん、二十代だろうが十代だろうが一桁だろうが、とうに死んでいるにんげんなんてたくさんいる。彼らは人語を解さないゾンビだ。ぼくらはただ、死体だらけの街を、沈黙し俯いたまま歩くんだ。ぼくらもいずれゾンビになることを知りながら、できうる限りその日を遅らせよう、遅らせようと無様に祈りながら。

悪意の行使

責任について考えていた。キックは子の画像をインターネット上にアップする親。子どもの写真をインターネット上にアップする親の目的がよくわからない、子が認識していてかつ許容していたとしてもまだ自己同一性を確立してすらいない年齢の人間に判断を委ねるのはおかしいし、保護監督の面から考えるとマイナス要素しかないにも関わらず写真を載せ続ける行為には首を傾げる、「うちの子かわいいでしょ」以外の目的が想像できないのだけれど目的がそれなのだとすればわたしはその行為を躊躇わない人間を軽蔑する、子は親の所有物ではない、という話なのだけれどそれは置いておいて。
わたしが軽蔑したところでなにが変わるわけでもないのでわたしは安心して軽蔑をする。と考えてから、わたしは自身の価値観や発言や行動によってなにかが変化してしまうことが恐ろしいのだな、その変化の責を取りたくないのだな、と思った。それはひどく無責任だし、無様だ。でもわたしは自分の生でいっぱいいっぱいだから誰かの生の責任なんて持ちたくない。結婚なんかしたくないし子どもなんて絶対にいらない、という価値観の根源にはそれがあるのではないか、と思った。わたしは誰かに影響なんて与えたくないし変革をもたらすなにかでいたくはない。わたしはなにものでもないままでいたい。革命なんかしない、という感情もきっとここから発生している。ではわたしは現状、あらゆる現状を肯定して飲み込んで生きているのかと言えばそうではなくて変えたい変わりたいよくなりたいよくなってほしい、と常々思っていて、でもそれを誰かに期待して責を誰かに押し付けて都合よく結果だけ受け取ろうとするのは怠惰、ひどいことなんじゃないの。わたしはいつだったか文脈になりたいと書いたことがあって、そう、理解されたいとか共感してほしいとかそんなことじゃなくてただ、わたしという文脈が誰かの意識に織り込まれますように、どうかそうなりますように、と思いながらなにかを書いたり言ったりしているのだけれどそれはつまり変革を求めているということ、で、でもわたしはその責任はとりたくないのだ。だからどうだという話ではないけれど。
わたしにはたぶん、自殺に追い込むことのできる人間が、ひとりだけいる。わたしはその人が死んでも一向に構わないし、むしろ積極的に歓迎すらする。わたしはあの人を憎んでいる。でも仮にあの人がわたしの言葉をきっかけに死んだとしたら、いいえそれだけなら構わないのだけれど死のきっかけがわたしあるいはわたしの言葉であるということを明確にしてから死んだとしたら、わたしはたぶんすごく苦しむと思う、それはあの人の死に対して責任を感じるとか悼むとか悲しいとかそういったことではなくて単純に死という最大級の押しつけを持ってして苦しめられるわたしがかわいそう、という意味で苦しむと思う、そしてその苦しみは想像しただけでうんざりするしたぶんわたし耐えられない、だからわたしはあの人を自殺に追い込むことはない。死を願う心は常に内側にあって、きっと永遠に表出しない。悪意の行使には意志が必要。わたしにはその意志がない。
憎しみは疲れる。自分に対しても、他人に対しても。ああもうおなかすいたな。

やめよう、と思い立って、そうだね、と決めた。もうこれから一年は見聞を広めようとしない、視野を広げようとしない、新しい考え方を取り入れようとしない、精神的に引きこもって好きなもの大切なものだけにもこもこ甘やかされて偏執的に過ごす。このひと苦手だな、と思ったひとには触らないようにするし、ちょっとわからないな、と思った音楽には耳を傾けないことにするし、文体がきもちわるいな、と思った小説には目を通さないことにする。好きだとわかっている、好きだと知っている、安心してくったりと体ごと預けて目を閉じてもただただしあわせ、そう信じているものだけに触れて生きる。好きな人にだけ会って、好きな人とだけ話す。しばらくは休憩。わたしはいろいろ遅いんだ。自分でもわかってる。
さいきんは好きな小説を読み返して、好きな音楽を聴き返して、好きなアニメを見返して、部屋に閉じこもって生きている。聴いたことのない音楽を探していろんなライブに行くのもやめた。好き、じゃなくて、愛してる、って言い切れるものだけを観に行こう。しあわせなことにわたしは好きなものが以前よりもずっとずっと増えて、だから行きたいライブはたくさんあるのだけれど、そもそもわたしは外出が嫌いなので好きなものをほしがって外に出るたびに鬱屈は溜まっていくのだった。毎回毎回その鬱屈を吹き飛ばす力のある喜びを得られるわけではないから、なおさら。
この一年でわたしはいくぶんか新しくなって、そのぶん磨耗した。補充しないといけない。わたしには中身がないから、好きなものたちで周りを囲って、ゆっくりとそれを吸収して、あたかもそれが最初からわたしであるかのように錯覚して。ふわふわのやわらかい。あたたかい、やさしい。薄明るい。閉じこもって。なにも聞こえない。曖昧で茫洋で、いつまでだってしあわせ。それだけ。

そんなわけで当分は好きなことばかり考えることにしました。だから昨日今日と一日のうち八割は中山さんのこと考えてる。ヌーノとのツーショットはあらゆる祝福が降りそそぐくらい可愛かったしいつもどおり世界でいちばん格好良かったんだけど痩せすぎで不安になるのでおかきとかじゃなくてごはんをちゃんと食べてほしいです。健康に幸福に生きていてほしいです。

かんちがい

緩やかなカーブを描く国道を自転車で走っていた。太陽は沈みかけていて、空は淡い紫とピンクがふにゃふにゃと入り交じっていて、かわいかった。雲はわたあめみたいだし、ふわふわ、まばらに散らばっているから休み時間に教室でおしゃべりをしている女の子たちみたい。そんなファンシーな空の下にはセブンイレブンの赤と緑とオレンジがビカビカひっきりなしに自己主張をしていて、そしてその手前に鳥の死体があった。鳥の死体は白かった。白くて、薄汚れていた。だから色としては、ほんとうは灰色なのだけれど、それは単に灰色と呼ぶよりは薄汚れた白と呼んだ方が正しいような色合いをしていた。無様だった。彼は死に絶えて、路上で横たわって、行き交う車の排気を一身に浴びながら、ただ状態としての死を沈黙したまま表現していた。わたしは自転車で走っていた。セブンイレブンに向かって、つまり鳥の死体に向かって、わたしは走っていた。ペダルを漕ぐ。漕ぐ。漕ぐ。わたしのクロスバイクはごくふつうのペダルでビンディングペダルではないから引くことはできない、ただ押す、押す、その一方通行の力だけでタイヤはくるくると回る。これで毎日いっしょうけんめい走っているから太ももの前側がいつもパンパンになるんだ、疲れるし、筋肉も均等につかないし、やっぱりビンディングペダルがいいかなあ。買おうかなあ。でもペダルも靴も高いんだよなあ。そんなことを考えながらペダルを押しているうちにびゅんびゅんと景色は後ずさりしていって前方の情景がすさまじい勢いでわたしに近づいてくる、鳥の、死体も、わたしにぐいぐいと近づいてきてその薄汚れた白いかたまりがくったりとして横たわってあらゆる車や自転車や歩行者からまるでないものとして扱われ素通りされてゆくのは不在の象徴であり死がそこに在ることによって彼は不在になるのだ、死が顕現すれば個は失われそれは存在しないものになるのだ、と思ったところで自転車はついに鳥の死体のすぐ横に到達しわたしもまたあらゆる有象無象のように彼をむなしく素通りする、ときになってようやく、それが鳥の死体ではなく単なる打ち捨てられた紙袋であることに気がついた。
帰宅して、自転車に空気を入れて、服を脱いで、洗濯機に放り込んで、洗濯機を回して、お湯を沸かして、熱いシャワーを浴びて、身体を拭いて、下着を身に着けて、パックをして、お茶を入れて、パソコンの前に座り込む。日記を書く。明日は何時に起きるんだっけ。五時か。五時に起きられたら、朝ごはんをつくってたべる時間がある。お弁当だってつくれる。五時半だったら、むり。明日は雨だっけ。違うな。明日は曇りだ。明後日が雨。念のため合羽は用意しておこうか。その方がいいね。晩ごはんはなにをつくろうか。億劫だね。作り置きのマッシュポテトとキャロットラペと、簡単なスープをつくって、それをたべようか。そうだね。ウイスキーはあったかな。さっき買ってきたよ。そういえばそうだった。ハイボールをつくってのもうかな。夏の楽しみだから。
もうすぐ長かったのんきな時間が終わるね。また忙しい日々に戻る。年の半分は自宅にいられないような。
わたしはどこにいるのかな。どこにいけるだろう。

誰もいない静かな庭

ときどきいなくなることを考える。いなくなった世界を外から眺めることも。いまはそれを疑似体験しながら、たぶんわたしが想像しているものとそれは、おおきくは違わないだろうと思う。
休日に自転車を漕ぐ。晴れている。陽射しが眩しい。腕がひりつく。自動販売機。母親と女の子。帽子。店先に並べられているトマト。改札口。下り電車。望んでいない外出。望んでいない生存。望んでいないすべてのことたち。
前髪が伸びた。目にかかるくらいになった。切ろうかと思ったけれど、まだそのままでいる。美容院で梳いていないから髪は黒々と広がる。わたしの髪は癖が強くて、乾燥していて、量が多くて、ぐんぐん外に外に広がる。むかしから自分の髪が嫌いだった。おとなしくすとんと落ちる、細く柔らかな髪の女の子たちが羨ましかった。でも、kissxxxxで織る子さんの長く多く広がるきれいな髪を見てから、自分の髪もそう悪くはないかもなと思えたのだった。そんなことを思い出した。
物語だけに救われる。
だから誰かを、実在する誰かを、物語として消費したくない。誰かにわたしの望む物語を押し付けたくない。生の重荷を誰かに預けるような、そんな真似はしたくない。わたしは誰もいない庭にいたい。誰もいない静かな庭。ピアノだけが聴こえるような。

終わりたい、終わりたい、最終回を迎えたい、なんて思いながら日々を過ごす。健全な毎日。
積極的に終わりを目指し終着を求める物語、のことを考えて、すこし笑った。「誰か」が「終わりを目指す」のではなくて、「物語」が「終わりを目指す」こと。登場人物の誰もが、作者ですら、継続を希うのに、ただただ終わりを目指す「物語」のこと。

生存のタイトロープ終焉のラウンドアバウト神ならぬ身に

死にたい死にたいとめそめそしながら迎えた朝はさいあくできらきらした夜空を模した遮光カーテンの隙間から入り込んでくる日光をたとえば憎んだりもする。あたしは夜がだいすきだからいつだって世界が夜であればいいと願うけれど、でもたぶん朝が存在しないのなら、夜は夜としての性質を失うんだろう。
それは日曜日の昼に訪れて月曜日の朝にもまだ去りませんでした。あたしはずっとめそめそしながら死にたい死にたいと呻いていました。自分の嗚咽なんて久しぶりに聞いたからびっくりした。甲高い笛の音に似ていたし、息苦しい烏の悲鳴にも似ていた。日曜日の陽が沈んで空が紫めいて真っ黒になってそれから白めいてきてそして月曜日の陽が昇ってもその精神状態は変わらなくて、やだな、でも、もう眠たいからそろそろ眠ろう、あたし土曜日仕事だったからそのぶん今週は月曜日おやすみなんだよね昼まで眠ろう、死体のように、死体ごっこ、そしてこの気分をきょうのうちにきっちり葬って火曜日には何事もなかったかのよう平然とした顔で会社に行くのだとぼんやり思いながら眠りについたんだけど一時間後に会社から「やっぱりきょう人手が足りないから出てきてくれ」と言われて出勤してきのうはほんとうにもうわけがわからない状態だった。
家にいるときのあたしと会社にいるときのわたしはほとんど違う人間で、あたし的にはそのふたつをスイッチすることは自覚的にできていると思う、でもきのうみたいなイレギュラーな状態はこれまで体験したことがなかったのでスムースに会社用のわたしに切り替えることができなかった。そもそも死にたい死にたいといってめそめそすることがわたしにとってはイレギュラーな事態なのできれいに移行することができなかった、結果どうなるかというと、ごくふつうに振る舞ったり会話したり仕事したりすることはできるのだけれど午前中二回、午後に一回、トイレでめそめそ泣いたりしていたのでした。トイレでめそめそ泣くなんて新入社員のころ以来だよねすごい、声なんて出さない、メイク落ちるし赤くなるからこすらない、ただ突っ立ったまま涙を流すだけのそういう機械みたいな。涙を流すマシン。ただそれだけのマシン。
あたしはわりと精神が頑丈なのでつらいことかなしいこと頭にくることがあっても一足飛びでそれらが死にたいに直結することはほとんどない、でも日曜日はなんかよくわからん、とりたててなにがあったというわけではないのだけれどなんか唐突に猛烈に死にたかった。死にたいとはいっても人様にご迷惑をおかけしたいわけではないので、というかあたしいいちおうあたしの人格が迷惑である、あたしの生存は基本的に迷惑である、ということは自覚しているので死ぬときくらい迷惑最小限で死にたい、と常々思っています。だからもし死ぬときはちゃんと仕事はやめるし荷物は整理するし賃貸も解約するしそのほか諸々の契約も解約するし、場所は国有林とかを選びます。第一発見者も(申し訳ないけれど)警察のひとになるように工夫をします。だから働いている状態でハイじゃあ死にますいま死にますとはならないし、日曜日のあたしはとてもとても切実に死にたかったけれどそれがずっと続くものではないと知っていたからあたしはこんなにも死にたくて死にたくて仕様がないのにどうせ卑近な未来のあたしはあたしを裏切ってまだあたしを続けるんでしょう、ということも知っていました。だからとりあえず未来への抵抗、実現可能な手頃な自殺として、twitterのアカウントを消しました。
あたしはなんでも喋りすぎる。喋る必要もないことばっかり、べらべらべらべら喋りすぎる。その過程で誰かを損なって損なって損なって損なって、わかってるけどいつだってどこまでも迷惑な人。簡単に喋ることのできる場所がたくさんあるの、あたしにはよくない。自分のアカウントを遡って眺めていたらあたしにはあたしがインターネットの怪物のように見えたよ。なんかかわいいけどね、インターネットの怪物って響き。
「コミュニケーションに対する欲求は善である」っていう言葉をあたしとてもよく覚えていて、それは友だちが友だちの通っていた大学の教授かなんかから聞いた言葉だったはずなんだけど、その言葉を初めてきいたときあたし、そのはっきりとした言い切り具合に、いたく感銘を受けたのでした。コミュニケーションに対する欲求は善である。なんて自信に満ちた断言っぷりなんだろう。だからあたし去年は話しかけたい人に話しかけて好きな人には好きと言ってきました。あたしは人とうまくつき合えないからたぶんきっとうまくいかないけれど、その言葉の潔さが美しかったから、一年間だけそのように振る舞いたいと思いました。
ねえ、向いてなかったけど楽しかったよ。でもやっぱり向いてないよ。あたしは喋れば喋るだけ誰かをめちゃくちゃにする。みんなができる当たり前のことがあたしにはできないし、あたしはろくなものを振りまかない。自分の人格に対する諦念はずっとあったけれど、たぶん日曜日、ほんとうにぽかんと空洞、自分の価値という名前のついた箱にあるぽっかりとした空洞、と目があってしまったんだろう。ねえもうあきらめがついた。わたしはいろんなひとたちとやさしいただしい関係を築けるようなまともな人間ではないし基本的に口を開けば開くほど迷惑を振りまくような人間です。わかっていたことだよね、ずっとむかしにも書いたよね、「当たり前ですけど、私に声をかけられて嬉しい人間はいません、音楽は好きですか、書籍は好きですか、珈琲は好きですか。小声で語りなさい、あなたの文法は醜いから」。
やさしいひとたちがやさしいのはわたしがわたしだからではなくてやさしいひとたちがやさしいから。わたしはやさしいひとたちのやさしさを消費するし食いつぶすし台無しにするしめちゃくちゃにする。わたしは発信する場所を多く持つべきではない。この先なにか美徳を得ることができるとしたら、それはたぶん沈黙だけでしょう。わたしが喋るとなにかが汚れる。わたしが喋るとなにかを損なう。わたしがいなくなって、わたしが書いたものだけ、すきなひとたちに届くのなら、それだけでいいのに。

 ✳︎

twitter、数えてみたらもう五年近くやっていたみたいで、だからもう日常の一部だったし、相互フォローでたまに喋るひととかには親しみすら感じていて、たぶんそれがよくなかったんだなあと思った。わたしとはぜんぜん関係のない知らないひとたちにだったら、わたしの呪詛がきかれても、きたないところを見られても、そんなの互いに傍観者に過ぎないからそれはただのエンタテイメントでありパフォーマンスで、だけど両者がお互いを認識しているのであればそれはインターネット上で流れていく消費されるどうでもいい有象無象ではなく「あなたの言葉」「わたしの言葉」になるのでした。わたしをおもしろいコンテンツだと思って観察してくれているんだったらそれでいいんだけど、仮にもし、わたしが親しみを抱くようにわたしに親しみを抱いてくれた誰かが、もしかしたら、わたしが呟く宛名のない言葉によって傷つくのではないだろうか、とおもったらこわくてもうなにも言えなくなった。わたしは個人になりたくない。肉体を持った他者として認識されたくない。ただのへんなよみもののままでいたい。
kanjoharuというアカウントとは別に、音楽アカウントとして作ったけど実態としてはぷらつりアカウントだった、もうひとつのアカウントがありました。一年くらい前に作ったアカウント。kanjoharuの方で何回か書いたけど、わたしはtwitterをコミュニケーションツールだとは思っていなくて、たとえば休み時間の教室とか駅の待合室に近いものだと思っていたのだけれど、ぷらアカの方では、半分くらい、コミュニケーションツールとしての使用をしていました。破綻した原因はたぶんそれだったんじゃないかな。わたしは常時誰かと交流しながら生きていける人間ではなくて、ひとりの時間がなければどうしてもだめで、でも誰かがいたらよっていって話しかけてしまうくらいこらえ性のない。暇だからtwitterを開くと誰かがいて、誰かがいるから喋ってしまう。そうすると、これまでなにかを書いたり本を読んだり音楽を聞いたりするために使っていた時間が、少しずつ減っていったのでした。そうやって誰かと触れあうことでわたしのなにかが変わればよかったのに、変わることはなかった。暇だと見ちゃうし、見ちゃうとそのまま喋っちゃう。調節できない。そして処理しきれない他者との関係ややりとりがしんしんと堆積していって決壊しておしまい。ばかみたいな自爆、楽しかったのにね、みんな優しかったのにね。
登録解除しちゃうと、意外に平気なのだった。あんなによく見ていたのにね。
いなくなったことに、誰かが気がついてくれたらいいなあ。そういえばいないな、と気がついてくれたら、そしたらわたしの五年間も一年間も、無駄じゃあなかったのかもしれない。

アカウントを消す前に、自分の過去ログをすべて取得した。さいきんはそれを読み返している。五年間の言葉の断片の蓄積。そこには人格があった。twitterのkanjoharuというアカウントには、たぶん明確な人格があった。それはもちろんわたしの一部だけれど、たぶんなにかが制限されたり増幅されたりしている、twitter専用の人格。インターネットの怪物、とわたしは思う。インターネットの怪物。
もちろん、スロウロウライフライブにも、人格がある。

✳︎

タイトルはついったで書いた短歌のなかで個人的にいちばん気に入ってるのだよ。
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