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しあわせなしろいいぬ

しあわせなしろい犬みたい。
楽しくもないのにどうして笑わなくちゃならないの?という疑問は一般的に子どもっぽいとおもわれるようで、愛想のひとつも振りまけないならば社会人ではないよねなんて風潮がしゃんしゃんで社会人なんてたいそうくだらない。でもそうおもいながらもわたしだってまいにち盛大ににこにこにこにこ愛想を振りまきながら無意味にへらへら笑っているのだ。さいきんはずっといそがしくてけっこうたいへんだったのだけれど、ここ三日間でわたしは十回以上、たのしそうだね、とか、しあわせそうだね、とか、なにかいいことあったの?とか訊かれている。わたしはたぶんたいていたのしそうで、機嫌よくしているし、能天気なばかのようにふにゃんふにゃんしている。意見なんて言わない。言ってどうなるわけもないから。たいせつなのはわたしがなにを考えているか伝えてそれに対する意見をもらって互いの考えを認識し合い場合によっては擦り合わせを行う、なんてことではなくて、わたしが考えていることをできるだけ労力なく実現するためにはどうしたらいいかというただそれだけでつまりそれには機嫌よくしにっこり笑い痴呆のようにしあわせそうに口八丁で他者を利用し動かすというただそれだけのことだった。もうほとんどオートマチックだ。ほとんどオートマチックにわたしは笑って、相手が言ってもらいたがっているであろうことを言って、機嫌よくして、相手の気分をよくした対価としてお願いをきいてもらう。わたしは自分の技術でお金をもらっているのではない、とよくおもう。わたしは機嫌よくすることでお金をもらっているのだ。わたしの労働はわたしの技術の提供ではなく、わたしの価値観や意志の摩耗、ただそれだけ。

すきときらいは相反しない、とよくおもう。むかしからおもっている。すきはきらいを打ち消さないし、きらいはすきを打ち消さない。どんなにすきなひとにだってきらいなところはあるし、どんなにきらいなひとにだってすきなところはある。個人とは全体的なものではなく多かれ少なかれ分裂的な、小数点以下とか、あるいはバグのような、そういった「そのひとの本流」とはずれたものを内包しているから、すきなひとがきらいだってきらいなひとがすきだってそんなのは悩むほどのことではなくてごく当たり前のことだ。でもだからいやだ。どんなにすきになっても完全にすきになりきって自分を預けてしまえるほどにその感情に一体化することはできない。いままで話したことのあるひとたちのことはみんなだいすきでみんなだいきらいだ。いまもまだ話し続けているひとたちともう話すことをやめたひとたちとの差異は、すきが多いのかきらいが多いのか、ただそれだけ。すきときらいのどちらが重いのか、ただそれだけ。だからいますきなひとたちのことも、わたしはいつかきらいになるのかもしれない。わたしはわたしがすきなひとたちをただすきであるというだけのことを、信じきることができない。自分の感情を信用することができない。瞬間のけものでしかない。毎瞬ごとに死んでゆくけもの。それはつまり死体の山で、とてもくさい。夏の熱に溶けて、ぐいぐい腐ってゆく。液状化したものが下部にたまっていて、それがじゅくじゅくと泡立って、死んだ肉の山を溶かしている。夏はくさい。夏はいろんなにおいがしていて、熱が無遠慮にゆらぎたって、目がつぶれ、視界は一定ではない。いろんなにおいがしていて、くさい。汗も、草木も、太陽も、ぜんぶくさい。生命のように無遠慮で、浅ましく、恩着せがましい。わたしは夏がきらいだ。自分が人間であること、肉体であること、それを思い出すから。
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