スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

くらいはこわい

「それを考えることで、そこに特別な意味を付け加えることで、何かを間違えそうな気がする。ここにある事実は、小さな偶然が起こったということ以外ないのに。」

舞城の淵の王の単行本が発売されたので買った。掲載号の新潮を買い損ねたので、単行本の発売日をずっと待っていたのだった。舞城はわたしにとって無条件でぜったいにおもしろい作家ではなくって、たとえば「イキルキス」とかは死ぬほどつまらなくてどうでもよかったのだけれど、淵の王はたぶんめちゃくちゃおもしろいぞ、という予感がなんでだかあったので、読める日を今か今かと待ちわびていた。そしていま小料理屋でうつくしい断面を晒す艶やかな浅〆のしめ鯖とヒンヤリとしたしらぎくをやりながら、33ページまで読んで、その予感が間違いでなかったことを信仰する。
スポンサーサイト

けだもののいない墓場

①灯台が好きで、ずっと見ていてもちっとも飽きない、と思う。赤いものや青いものもいいが、やっぱり白いひかりのものがいちばん好きだ。ずっと点いているものより、閃光を放つものがいい。全周を照らすものよりは、明弧の限られているものがいい。まっすぐ光るものよりは、ぐるりと回転するものがいい。
②漢字の使い方がわからない。わたしはわたしをわたしと書くのがいいのか、私と書くのがいいのか。おもうのか、思うのか。仰々しい字は使いたくない、だからたとえば想ったり呑んだり云ったりはしないけれど、でも本当は仰々しさなんて仰々しさを感じる私がただ思うだけだ。灯台なのか、燈台なのか。平易な文章がいい、簡潔で日常会話に使用する言葉だけで事足りるような、単純でうつくしいものがいい。でも時には灯台よりも燈台のふさわしい文章がある。うつくしいより美しいの硬質さを求めるときも。難しい文章なんか誰にでも書けるのだから、できるだけわかりやすい方がいい。でもわたしはわかりやすい文章を書けるほど頭がよくない。いまだってこんなつまらないことでぼんやりとしている。だって夜の空をサーチライトが照らしている。山の中腹にあるようだ。あれはなんだろう、と紺色の空を眺めている。マンションのような建物の影からまっすぐに伸びている。その先にはやけに明るい星があって、その星のための道のようにも見える。地図でも見たら載っているのだろうか。グーグルで調べたらわかるのだろうか。でもわたしはそのいずれの行為もしない。ぼんやりしているから。星明かりなのか星灯りなのかわからないし、光なのかひかりなのかもわからないから。誰もいない夜は静かだ。ゆっくりと仕事を進める。ときどき空を眺める。星に向かう道がある。ぼんやりとする。わたしの頭はよくない。
③ここ数日で本を数冊読んだ。中村文則の迷宮がとてもよかった。あとはぜんぶつまらなかった。
④わたしは身体的に女で、そのことに対して不満を持ったことはあれど違和を感じたことはない。スカートが好きだ。かわいい服が好き。化粧をしたい、ハイヒールを履きたい、贅沢なランチも時間をかけたお茶会も大好きだ。女である、というだけで許容されるいくつかの事たちが大好き。でもだから同時に煩わしい。わたしがスカートを愛するのは、かわいい服を、化粧を、ハイヒールを、贅沢なランチを時間をかけたお茶会を愛するのは、わたしが女だからじゃない。でもわたしはもう既に女という性を獲得してしまっていて、女でなくなるということはできなくって、だからわたしの引きずるたくさんの属性がわたしの性に起因するのではないということを証明することもまた、できない。わたしは男に生まれてもスカートをはきたかったと思う、でもそれは「わたし」が男であったら、の話で、仮にこの主体が生まれたとき手にした性が男性であったのなら僕はその肉体に沿った成長をしてスカートなど履きたいとおもわなかったかもしれない。もちろんその主体はわたしではない。わたしは生まれたときに女性を手にしていたから。性はわたしのなかに混ざり込んでわたしという個体を定義している。雁字搦めだ。どうしてこんなことになるんだ。わたしは男になりたいわけではない。わたしという意識を保持したまま男になって、その上でスカートをはきたいわけではない。でもわたしは女であるがゆえにスカートが好きなのだと言いたくないし、信じたくない。わたしはわたしの嗜好を性と結びつけたくない。でもどうしたってわたしは女だし、既に獲得されていて個と混ざり合ってしまった原始的な性質を喪失することはできない。わたしは女であることが嫌なわけではない。でも、女であると認識され、女として扱われることは本当に嫌だ。性別なんていらなかったのに、与えられてしまった、分けられてしまった、もう元に戻ることはできない。こんなにも女性性を憎んでいたのか、と気がついて愕然とする。もう過ぎ去ったと思っていたのに。なんとかなったと思っていたのに。いつまでも同じ場所で足踏みをしたまま、めくらの犬のようにぐるぐると歩き回って、そのうちあたしは自分の足を食うのだ。
⑤男性限定ライブはかなしかった。彼らの音楽から性的な規範をほとんど感じることがなかった、それをたぶん拠り所にしていた。ふだんのライブは女向けのものなんだね、なんて思いたくなかった。男だからどうとか女だからどうとか、そういった括りの思考に陥る土台に彼らが上がってしまった、そのこと自体がかなしかった。でもそれはわたし個人の宗教だ。わたしが勝手に負託しただけのことだ。すべてわたしの勝手な思い入れで、彼らにも、音楽にも、商売にも関係がない。
⑥自分の感情が信じられない。自分の思考が信じられない。

行ったライブなどの感想。

20150322sun 「萬の夜に鳴くしゃれこうべ」発売記念Special Live@RUIDO K4
リフリッチを最初に見たときの楽しさは、初回ゆえに盛ってしまった印象だったのかな、とがっかりする。なんてボロボロなリズム隊。アコースティック、聞くに堪えない。

20150402thu beratrex 50years anniversary@高円寺high
最高の夜でした。むっちゃ楽しかった。行ってよかった。ヤマジとナッキー!と思って行ったんだけどぜんぶよかったな、ほんとずっと最初から最後まで楽しかった。あのメンバーでのやたらゴリッゴリのOnly shallowなんて!楽しすぎて爆笑してしまった、むちゃくちゃよかった。スミスじゃなくてシミズ、やたら似ていて面白すぎたし。dipを歌うナッキーもcotdを歌うヤマジもとてもよかった。超レアな光景。
終演後ごはんをたべに行ったお店で、Kさん(クハラファン)がメニューをガン見しているからなにかしらと思ったら「モロQ」「ウメQ」の文字があった、というのがこの日いちばんの笑いどころ。

20150507thu Plastic Tree「slow dive」@渋谷公会堂
楽しかったというよりは面白かった。なんだったんだろう…。やたらめったら勢いのある公演で、なにがなんだかわからないうちに終わった。演奏もセットリストも「わたしの見たいPlastic Tree」では決してなかったので満足したかと言われるとちっともしていないのだけれど、それでも不満かと言われると不満ではないですと反射的に即答してしまうような、つまりいつもよりちょっと、考えなしで動物っぽいライブだった。20周年を迎えたバンドに対して言うことではないかもしれないけれど、初期衝動、のようなライブだった。ドラムがやたらめったらよくてむっちゃカッコよくて惚れ惚れとした。
そしてわたしにとって最後の渋谷公会堂だった。今までほんとうにありがとう。たくさんの思い出がある。だいすきな会場だったよ。

20150517 Imagination Nights@西川口Hearts
大中。やっぱり歌はなくていい…。
ギターはピロピロ鳴らしまくっていて楽しかった。

夜のこと

やることがあったのでさっきまで仕事をしていた。終わったからそろそろ帰ろうかと思ったのだけれど、まだ会社にいる。さっき後輩がやってきて、仕事を始めたから。たぶんきょうは会社に泊まるんだろう。
とても熱心に仕事をする人だ。周囲に対する気遣いが上手くて、場の潤滑剤となる人だ。
いつも笑っていて、他者を和ませることが上手い。だからあまり気付かれていないようだけれど、さいきんよく、疲れた顔をしている。明らかにオーバーワークだ。
彼女はわたしの直接の部下じゃない。だからわたしは彼女の仕事の細かいところまではわからないし、彼女に対して直接的な権限はなにも持っていない。だからいい大人に対して余計なお世話かもしれなくて、でも、とりあえず二時まで待ってそれでもまだ仕事をしていたら、今日は強引にでも寝かせる。わたしシュラフ持ってるし。
朝になったら、彼女の上司と話をする。

ところでコーヒーを淹れた。むだに丁寧にね。暇だから。あたし仕事ねーし。やろうと思えばいくらでもあるけど、もう集中力切れたからきょうはムリだにゃ〜。
わたしはコーヒーがすきだけれど、コーヒーを淹れることがめちゃくちゃヘタだ。ヘタすぎて驚いて、一口飲めば完全に目が醒めるくらいだ。なんて機能的ファンタスティックワンダフル、も〜ヤダめっちゃマズイ!このコーヒー豆は、ぜったいぜったいおいしいやつなのに!買ったばかりで鮮度はバツグン、お店でローストして挽いてもらっていい具合にわたし好み、お店で店主に淹れてもらったものをのんだときはほんとうにおいしくって、そんなの感動、感激、逆立ちしちゃうくらいでスバラシイのだけれどでもわたしが淹れるとなんでこんなにマズくなるのかな〜!
というある種の毒薬をこれから彼女にあげる。たぶん彼女は、にっこり笑って喜んでみせて、口をつけたらもう一度にっこり笑って、おいしいです、ありがとうございます、なんて言うんだろう。彼女はいつも笑っていて、他者を和ませることが上手い
わたしはそれが悲しい。

おまえはわたしに似ているね

わたしはわたしという意識が発生したのは二十歳前後のことだと思っている。だから生まれてからさほど時間が経っているわけではない。まだ子どもだ。果てしのない夏休みの中にいるような。
たとえば多くのひとたちが少年や少女、あるいは思春期と呼ばれる永い刹那に変化する、そういった時期を、盲目の胎児として過ごした。

わたしは年に一、二度は、十八まで育った家に顔を出す。たいてい一泊か二泊して、逃げるようにそこを出る。そこはわたしの家ではないからだ。よその家に、よそよそしい家に、長いあいだ身を置くなんてそんなおそろしいことは、できない。それが、そのよそよそしさが、わたしだけのもので、よそよそしい家自体はねっとりとわたしにまとわりついてそこに止めよう止めようとするものなのであれば、なおさら。なおさらおそろしい。なおさらおぞましい。そんなおぞましいことは、できない。
それでもわたしは、年に一、二度は、十八まで育った家に顔を出す。わたしの認識がどうであれ、そこはわたしの実家であり、本籍地であり、「血縁者」の住む場所だから。社会的に大人であるわたしが、社会的に責任を負う場所だから。わたしとその場所の断絶を、他者からは観測できない場所だから。法が乖離を、許さない場所だから。

わたしは実家に顔を出すと、たいてい父と酒を飲む。父は最近よく、「おまえはおれに似ている」、という言葉を口にするようになった。わたしはそれを聞いて笑う。笑っている。笑ったままでいる。この人は、似ているという言葉の呪いを、その呪縛を、きっとずっと知らない。わたしがそれを語らないから。わたしにそれを語る気がないから。わたしはこの人にわたしと会話をする気がないということを知っているから。この人と会話をすることはできないということを、知っているから。
わたしの顔は母の顔と似ている。だからわたしは子ども、あるいは胎児の頃、母の縁者たちからたびたび、同じ言葉をかけられた。
「まあ■■ちゃん、久しぶり、大きくなったね、相変わらずお母さんにそっくり、ますますお母さんにそっくり似てくる」。
わたしは台本があるのかなと思っていた。子どもの、あるいは胎児のわたしは、そのための台本があるのかな、と思っていた。彼らがあまりに画一的な、判を押したよう、まるでおんなし、つまらないことばかりを喋るから。
似ている、という言葉は呪縛だ。おまえはわたしに連なるものだ、この一連の流れのなかにあるものだ、あるべきものだ、ということを繰り返し唱えることと同じ。それは間接的な負託であり、緩慢な強制だ。

いつだったか父と、わるいひと、について話した。わたしは、世の中にわるいひとなどそうそういない、と言った。父はそれを聞いて、おまえは優しいんだな、と言った。わたしはその言葉を聞いて、それ以上なにかを言うことを止めた。完全な悪とはなにか、という話をしても、おそらく父と話が通じることはなかった。完全な悪が存在するとしたら、それは天才であり異形である、一般的で凡庸な人間は意志をもって悪を為すことなどできない、悪を為すことすらできない、というような話をしても、仕様がなかった。どうだっていいことだった。
父はかつて教養として小説を読み、音楽を聞いた。わたしは父に、十代・二十代のうちにヘッセを読めと言われた。毎週毎週、朝には必ず、ベートーヴェンとモーツァルトを聞かされた。
わたしが大人に、あるいは子どもになってから、父にヘッセの話をすると、父は車輪の下の、春の嵐の、デミアンの、内容を覚えていなかった。クラッシック音楽の魅力を、愛すべき美点を、語ることができなかった。
彼は手段としての文学と音楽を愛した。だから平然と語る。二十代から四十代にかけて、本なんて読めなかったし、音楽なんて聴けなかった。そんなことをしている暇はなかった。おまえたちを育てることに必死だったから。おまえたちのために、必死だったから。そんなことは、余暇がなければできないことだ。

確かにわたしと父は似ているだろう。短気で直情的で、一度思い込むと、視野が狭い。


六本木ヒルズのアート&デザインストアで行われている、宇野亜喜良「DEUX LIVRES」に行ってきた。とてもよかった。穂村弘との共作の絵本、「X字架」と「恋人たち」を買った。たいせつに持ち帰って、たいせつに読んで、たいせつに仕舞った。またいつか、取り出すだろう。

ディスコミュニケーション・ブレイクダンス

手紙やメールが苦手だ。宛名の存在する文章を書くことが苦手。
わたしは日本語がちょっとだけできるので、日本語を使って文章を書く。だからわたしが文章を使ってやりとりをする相手も、日本語を使える相手だ。でも同じ言語を使っているからといって、わたしが文章で表現しようとした意図が、相手に正確に伝わるとは限らない。むしろ正確に伝わることはありえない、と言っていい。人はそれぞれにそれぞれのエンコーダを持っていて、ある言語で語られたある文章を解析するとき、それぞれの作法に則った変換を行う。エンコーダがまるでおんなしひとなどおそらく存在しなくって、だからわたしたちは、発信した言葉とは大なり小なり違うものを相手に伝えることになる。このブログを書き始めたころくらいかな、チェルノブイリと兎のことを書いた。チェルノブイリと兎と、それぞれの内部に根付いている、ソレのことを。
わたしたちはお互いのエンコーダのことがわからない。わからないから、できうる限りそれを知ろうと、つたない対話を繰り返す。相手の暗号のコードを見つけだそうとする。そして相手のエンコーダにのっとって、その変換の様式にのっとって、自分の言葉を組み立てようとする。できうる限り正確に、自分の言葉を自分の意図のまま、伝えようとする。
もちろんそれは不毛な試みで、相手に自分を丸ごと伝えるなんて、そんなことは不可能だ。
わたしたちは間違える。わたしたちはねじ曲げる。わたしたちは改変する。わたしたちはめちゃくちゃにする。
めちゃくちゃにするんだよ。

宛名のある手紙を書く、ということは、その相手が大切であればあるほどその相手にとってふさわしい言葉を選択したいという気持ちが強くなることであり、また、その相手にとって完璧にふさわしい言葉をわたしが書くことはできない、というアンビバレンツを受け入れることだ。わたしはあなたに手紙を書きたい。わたしはあなたにわたしの考えていることを伝えたい。あなたにとってふさわしい言葉で、わたしの意図をできうるかぎりそのままの形で、あなたのあなたという形を損なわないように、伝えたい。でもそんなことはできない。絶対にできない。わたしたちが違う個体で、同期することもできない独立した思考の持ち主である以上、そんなことは絶対にできない。
わたしは手紙やメールが苦手だ。宛名の存在する文章を書くことが苦手。どれだけ考えてもわたしはあなたにふさわしい言葉を見つけきることができないし、あなたのための完璧な一文を書ききることができない。どんなに丁寧に棘や針や鋭い破片をとりさってやわらかな道を整えたつもりでも、わたしの内包する忌々しいソレがあなたの内部で孵化し成長し醜い形で顕現し、あなたのたいせつななにかを損なってゆく。
わたしは好きな人に手紙を書くことはできない。

インターネットを通じて知り合って実際に会って未だに交流のある人、がわたしには複数人いて、その人たちはほんとうに大切な友だちだ。わたしは根暗で出不精なので、インターネットが存在しなかったら、友だちなんてほとんどいなかったと思う。インターネットの存在する時代に生まれてほんとうによかったなあと思う。インターネットは最高だ。
でもだから、今はもう、インターネットの人はインターネットの人のまんまがいいなあ、とも思う。「実際に対面すること」の価値、というのは単純に「装飾の増加」でしかないと思う。つまり、それまでは文章のみによって伝えられていたものが、容姿・表情・仕草・声音・話し方・・・といった複数の要素によって装飾されるということに過ぎない。装飾が増えれば増えるほどエンコーダは複雑になる。伝えたいことを伝えることは、より難解になる。単なるテキストファイルに過ぎないままでいられれば、わたしたちはよりシンプルでいられるし、解析も容易なままでいられる、つまり、より本質に近いままでいられる。より原始的な、いつかは知らなかった、名前も持たなかった、分離する前の、あの頃に掠めるような近さのままでいられるような、気がする。
わたしは顔を持ちたくない。あなたの顔も、知りたくはない。
それでもわたしはあなたを知りたい。


2013年4月に刊行された「あるところに、」という詩誌に参加させてもらって、もう2年が経ちます。こないだの5月4日、第20回文学フリマで発刊された「あるところに、vol.5」でも変わらず書かせてもらっています。あるところに、はフリーマガジンなのだけれど、装丁がフリーとは思えないほどすばらしいことがおおきな特徴のひとつ。vol.5は特に、ひんやりとしたしずかなあたたかみ、の感じられるかわいい装丁で、わたしはとってもすき。紀ノ国屋新宿店でも配布されていたようなのだけれど、それはまだあるのかな、もしかしたらもうないかもしれない。ついったやメールで請求はできます。もうすこししたら、たぶん電子版もできあがります。vol.1〜vol.4はもう既に電子版が公開されているので、インターネットの海の中でも、それらを読むことができるよ。
こんかい個人的にすきだったのは、篠田翔平さんの「別れ」、しろいろさんの「HAPPY BIRTHDAY」、佐藤真夏さんの「ドライブイン・マイリアリティ」。よかったら見てみてね。井龍ひとみさんの装丁はまいかいきれい、でるたびでるたび、「こんかいの、とってもすき!」って言ってる気がする。
わたしはなにができるかな。わたしはなにをしよう。わたしはわたしにできることをする。わたしはわたしに。わたしはわたしの。わたしはわたしが。わたしが。


ソレがソレのまま伝わらないことをおそれている、と書くとソレがまるで無害でうつくしいもののようだ、でもそうじゃない、ソレはソレ自体が既に毒であり害悪にすぎない。毒を毒のまま手渡すことができても、それは毒に過ぎない。あるいはソレがなくなっても、いつかソレがなくなっても、わたしは手紙を書けない。手紙を書けない。あなたにとって完璧にふさわしい言葉を、わたしが書くことはできない。わたしのなかには、それがない。それでもわたしはあなたを知りたい、
という、暴力。

ねむらない

さて変わらず憎い。あたしはずっと連続する怨嗟のなかにあって途切れることがない。なにかを軽んじたり罵倒したりするおおきな流れに住んでそこから逸脱することができない。変わらず憎い。たくさんの、あたしの周囲に存在するたくさんの、ごくあたりまえのものたち。あなたたちを取り巻く、その不均一で透明な、あらゆる色彩がごっちゃになって淀んだ、うつくしく清浄な空気とか。
台風が死んで雨が降った。関東に向かってまっすぐにすすんでいた台風6号は、きょうの夕刻、温帯低気圧に変わったらしい。横浜では十九時半ころに弱い雨が降り始めて、そしてそれはものの数分で、強く激しい雨になった。ぬるいアスファルトがぬるい雨粒を弾く。それがわたしのパンツの裾を濡らす。お気に入りの、仕事のときによく履く黒いパンツの。三ヶ月前に裾がほつれてしまって、ミシンで縫い直したら縫い目が少し目立ってしまって、でも気にせずにそのまま履き続けているパンツの。その裾の。
あるいはその説明は嘘だ。「気にせずに」そのまま履き続けている、という説明は嘘だ。気にしていないわけではない。でも神経質にどうしようもなく気にしているわけでもない。洗濯して脱水されて胎児のようにくしゃりと丸まったその子をパシンと伸ばすそのときにわたし、ちょうどわたしのおなかの前あたりでひらひらとはためくその裾に目線をやる。洗濯ばさみで形を整えながら挟んで吊して太陽の下に差し出すまでそのときまでわたしの目線はずっと、その裾の、控えめなアラベスク模様を分断するようにまっすぐに引かれた点線の、その境界線を眺めている。わたしは気にしていないわけではない。ただ、気にしている、と言うには、その表現を与えるには、わたしはあまりにもそれらを乱雑に扱い過ぎる。あたりまえのものとして、どうしようもないものとして、通過してゆくものとして、ただ存在を認知するばかりに過ぎる。あたりまえのものとして、あまりにも簡単に、粗雑に蔑み、嘲り憎みすぎる。

ポタージュを飲みます。それはキャベツのポタージュです。それはコーヒーカップに入っていて、およそ100ccほどの量があります。ペーストであったころの存在感を大いに残したどっしりとした質感で、ナメラカナザラツキを舌に残します。わたしがここ数年気に入って通っているお店はポタージュの質感ならふわふわ、舌に触れる瞬間にはかなく消えてゆくようでそれはとても愛しくって、でもそれと対を成すような質感の自己主張のつよい重さ、ひとくちのワインでは洗い流せないしつこい失恋のようなくどさだって、そんなものは同様に愛しいよ。
ここは初めて来たお店だ。この街によくあるそれなりに名のあるホテルやリストランテで修行して地元に独立した、若い店主のやっているちいさなお店。若い女性向けの、ちょっと気の利いたワインがあるところとか。客側の知識を試すよう、説明をまるでしないところとか。自分の価値観を誇るように、試すように、祈るように、なにかを軽んじてなにかを罵倒する。わたしはそういうお店は嫌いだ。でもほんとうは、嫌いじゃない。たとえば嫌いであることとおんなしように。このお店にはきっともう来ないけれど、もしかしたら来るかもしれない。営業時間が、使い勝手がよくて、便利だから。駅からすこし離れていて、遅い時間ならそんなに込んでいなくて、便利だから。料理人の個性を感じられるつよい料理はなくっても、それなりにおしゃれなカフェ飯の上位版、みたいなものを安定して出してくれて、便利だから。あなたはわたしにとって、便利だから。
でもそんな価値観って愛だろう。いつかわたしが「もう来ない」と思いつつそのとおりひとりで来ることは二度となく、それでも誰かを連れているときに、ふと条件にあって手頃だからと思い出すのであれば、便利だからとあなたを思い出すことがあるのならば、そんなのってどうしたって愛だろう。そうでないとするのならば、ほかにどんな言葉で表せばいいんだろう。いくらでも思い浮かべることができる。キーボードを叩いていくらでもそれにふさわしい言葉を捻出することができる、でもそんなことは億劫だ、そんなものに割く時間はわたしにとって損失だ、だから愛でいい。こういう有象無象の集合体は、だいたいぜんぶ、愛でいい。だって愛なんてだいたいぜんぶ、自分本位で、薄汚くって、きもちがわるい、そもそもそういうものだろう。愛してるよ。

いまさら、三月のライブの感想を書く。


20150308sun 村上"ポンタ"秀一、山下洋輔&坂井紅介 "The Trio" フューチャリング小沼ようすけ@Motion Blue yokohama
学生時代から大好きでまだ観ていない人たちを観られる機会があればできるだけ観よう、というふんわりした目標を今年は掲げているのですが、これはそのうちのひとつ。今年中にあとふたつみっつくらいそのカテゴリのひとたちを観られるといいなあ。山下洋輔のピアノが大好きでずっと聴いていたのにそういえば生で観たことないな、と思って調べてみたら、あるじゃん横浜ライブ!しかもポンタさんとのトリオ!これは観なくちゃだぞ、と喜び勇んで向かいました。
とにかくエレジーをやってくれたことが非常に嬉しかった。とてもとても大好きな曲。皮膚をザラザラと撫でる、あのなんだか、なんとも形容詞難い”ざわざわ”する感じ。あとはグッドバイ・ポークパイハット!わたしにとってこの曲はベックなのですが、それとはまったくちがう魅力を味わえてとても楽しかった。いろんなひとのいろんなアレンジで、そのときにしか存在しない演奏を聴けること、それってスタンダードやカバーの代え難い魅力だよね。ときにはオリジナルよりも色濃く、そのひとの個性が剥き出しにされたりするんだ。
この日はトリオにプラスしてギターの小沼さんが参加していて、そのプレイもけっこうおもしろかった。でもわたしはこのトリオのストレートな演奏を聴いたことがなかったから、そっちを聴いてみたいな、ギターはちょっと過剰装飾かな、という印象もすこしあった。もちろん、彼の演奏自体は素晴らしかったんだよ。
ゲストを加えたプレイで楽しかったのは、やっぱりスティールパン。スティールパンという楽器自体が大好き+あんまり生で聴ける機会がないのもあって、スティールパン奏者を迎えて演奏した曲はとっても楽しかった。もっと大きくても、自己主張激しくてもいいのになあ、と思いながら聴いていました。

20150311wed 濱Jam祭 presents ROVOワンマンLIVE@THUMBS UP
この日は中納さんの劇場ライブとSPANK PAGEのライブもかぶっていて、どれに行こうどれに行こうと真剣に悩んだのだけれど、けっきょくはいちばん近いものを選びました。サムズアップ初めて行ったけれど、よいところですね。こんどは座ってちゃんとごはんをたべながら観るライブに行きたいなあ。この日はスタンディングだったんだ。一推しらしいバッファローチキン、立ってたべられるようにパック詰めされて売られていて、たべなかったのだけれどおいしそうだった。おいしいものをたべながら聴く音楽は最高なんだよな〜。
ROVOは去年の野音ぶりですが、相変わらず宇宙に行ける感じ、あの言葉がぴったりはまる夢見がちでだんだんトランスしてゆくような空間が素晴らしかった。天井からはいくつもの裸電球がぶらさがっていて、反響し続ける音楽に合わせてひとつひとつがバラバラに明滅して、だんだん自分の立ち位置がわからなくなっていくような。自分の意識が浮遊していってわからなくなる、どんどん夢遊病者に近くなってゆく、アストロノーツ、上下左右のわからない、ふわふわした空間に浮かんでいるような。あるいは浮かんでいるという状態すら定義できないような。そんな心地になるのが最高。気持ちよくって何回でも何回でも聴きたくなる。このひとたちのライブの気持ちよさって「焦点のあわなくなる感じ」だなあってしみじみと思ったのだけれど、たとえばキーボード、あるいはヴァイオリンでも、なにかひとつの楽器に意識を傾注して聴いていようと思って聴いていてもいつの間にかそれだけを追うことを忘れて全体をふわふわと聴いているような。でもハッと気がつくとまたひとつの音を追いかけていたり。そういうなにかをはぐらかされる感じ、なにかがわからなくなる感じ、鮮明なはずなのに掴めない、そういった夢遊、浮遊、の感覚がきもちいいんだと思うのね。そしてその感覚と呼応するように、バラバラに明滅する、フワフワと移ろってゆく、裸電球のぼんやりとした明滅!音の焦点があわなくなるように、光の焦点も、曖昧にずらされて、でもそれが不安じゃなくって。トランス。とってもきもちがいい。

20150313fri 「写実的な夢想主義者」@高田馬場AREA
リフリッチとアンバーグリスのツーマン。アンバーがとてもよかった。解散しちゃうのもったいないな。初めて観たのだけれど、バンドとしての基礎体力が高いなあ、という印象で、弦楽器隊の絡みに室内楽的な雰囲気があっておもしろかったし、突出して優れているプレイヤーはいないなあと思ったけれど、バンドとしてのまとまりがとてもよくって、アンサンブルが気持ちよかった。あと、ボーカルのひとが何回か繰り返していた「フラニーでもウェンディでもないひと」という発言が印象に残りました。わたしはまさに、そのカテゴリの客だったから。ツーマンイベントにおいて、どちらのバンドの固定客でもないけれどなんとなくふらっと来た客、一見の観客、アウェイの視点、というものを意識したパフォーマンスをしてくれるアーティストって、とっても少ない。でもこういう視点って、エンタテイメントにおいて絶対に必要なものだ。少なくともわたしはそう信じている。
アンバーの話ばっかりしているのだけれど、この日はいちおうリフリッチを観に行きました。以前観たときと比較してぜんぜん歌えていないしアレンジはインスタントだしへたくそだぞ、うーんこないだの印象は初見ゆえに自分の中でいろいろ盛っちゃってたのかな、とがっかりして、二、三曲聴いたらフロアから外に出てお酒を飲んでいました。
リフリッチ終わったあとに合流した友だちに話を聞くと、どうやらこの日、リフリッチは全曲アンバーグリスのカバーだったそうです。なるほどだから歌えてなかったしアレンジもおもしろくなかったのね、、わたしはリフリッチの曲もアンバーグリスの曲もぜんぜんわかっていないのでカバーだなんてまったく気がついていなかったよ〜。

20150318wed Plastic Tree「Slow dive」@赤坂BLITZ
あきら天使。キラキラアキラキラキラエンジェル。地上に舞い降りた最後のエンジェル。
というふざけた感想しか出てこないんですが……いやまじめなんですけど……なんなのあのパーカーあのねあのおじさんね背中に白い羽のプリントされた黒いパーカーを着て出てきたんですけどなんなの可愛すぎか!!!せかいでいちばんかわいい!!!!!
ライブ全体を通して終始ご機嫌だったしなんだろう世界滅びるのかな、と涅槃の心持ちでした……ぷらちゃんに対する面倒で複雑な感情がマックスになっている現在、このライブ行く前はそうとうテンション下がっていて「きょうブリッツじゃなくてピットインいきてーなーなんであたし赤坂向かってんだろやっぱり新宿行こうかなあ」とか思っていたんですがSEかかってアキラ出てきて照明当たってきょうの衣装胸元ゆるっゆるで髑髏がこんにちはしていますよということが判明した瞬間にテンション鰻登りになった自分にがっかりしました。フロアに背を向けてエンジェルウイングが露わになったときには昇天した。かみさまありがとう。
という天使補正で非常に楽しかったのですが、音楽面のみでの満足度はぼちぼちくらいでした。わるくなかったんだけど、とくべつよくもなかったな、という印象。この日の演奏にはわたしのすきなどこかに連れていかれる感覚、がどこにもなかった。
演奏に対する満足度の低さには、セットリストも大きく影響していました。今回のセットリスト、大好きな曲はたくさんやってる(理科室、エとセとラ、crackpot、パラノイア、エンジェルダスト、バンドver.の夢の島!)んだけど、流れが悪すぎて上がったテンションが持続しなかったよ。ナカヤマさんの「みんな知ってるとは思うけれど、Plastic Treeは実はこういうところがすごいんだ!っていう曲をやります」という前振りから始まった夢の島はほんとうによかった(バンドアレンジもちょっと変わっていた)のだけれど、そこからさびしんぼうにいくっていうのが……夢の島で終わり、の方が絶対によかったのに。どうして同系統の曲続けてやっちゃったんだろう。アンコールもメランコリックのあとに13th、というのが落差がありすぎてあんまり入り込めなかった。いっそのこと思い切り暴れる曲で締めてくれればよかったのにな。
個人的には、「Slow Dive」というツアータイトルに沿う、ダウナー系の、「沈む」あるいは「遊泳する」という印象の曲で揃えられたライブを観てみたかった。水葬。と針槐とブルーバックは聴きたかったな。懺悔とかやってくれてもよかったのよ。
あ、そういえばケンちゃんがエとセとラのコーラスをしていました。これまでは正くんだったと思うので(たぶん)新しい試みかと。これはとってもよいと思う。佐藤さんのコーラス、音響の関係か残念ながらほとんど聴こえなかったのだけれど、こういう試みはどんどんやってほしい。
あーあと木目ちゃんとストラトがいたので喜んでさめざめと泣いた。

20150319thu 実験岡部洋一@カチャトラ
岡部さんとミトさんのセッションで、かつレストランライブだと言うので喜び勇んで行く。おいしいものたべながらよい音楽を聴けるという機会を積極的に掴んでゆきたい昨今なのだ。レストランライブサイコー。お酒のんでご飯たべて音楽きくなんて、そんなの楽しいに決まってるでしょ!楽しすぎて貪欲にどんどん経験したい。この日もちょー楽しかったよ!
最初はインプロセッション、岡部さんは簡単なドラムセットにパーカッションを複数組み合わせたもの、ミトさんはソフトシンセで。お互いの音、アプローチを探り探りながら進んでゆくゆっくりとした進行だったのだけれど、その探り合いがとってもよくって。お互いのアプローチをすこしずつすこしずつ掘り下げながら、これはどう、これはどう、って掛け合っていって、後半になってゆくにつれて少しずつ少しずつ遠慮のなくなってゆく感じとか。でも最後まで「ああ他人同士なんだな」ってわかる、完全に混じり合うわけではない音の構成とか。(たとえば予期していないタイミングで鳴ったのであろう金属的な音や高音のアプローチ、それに神経を尖らせて対応しようとする感じ、とか!)その距離、緊張感、それを保ちつつもより近づこう、おもしろいことをしよう、という鳴らし方がおもしろくって。インプロのあと、最後にはミトさんが「僕の曲じゃないんだけど、ここのマスターが”いいね”って言ってくれた曲をやります。ほんとうはもうひとり欲しいんだけど……たぶんわかるとおもうんでみなさんで歌ってください」と言って演奏された「波よせて」はとっても嬉しかったし気持ちよかった、聴けて、歌えて、よかったな。MC的には音楽界のラーメン業界のはなしがとってもおもしろかった。
このライブを観ながらわたし、ここさいきんよく考えている、「音楽とははたしてなんなのか、ライブに足を運ぶとははたしてどういうことなのか」ということをずっと考えていた。音楽とははたしてなんなのでしょうか。ライブに、現場に足を運ぶということは、いったいどういうことでしょうか。
音楽を聴いているとき、全身のそのいっさいを音楽だけに傾ける、ということがわたしにはできない。どんなに楽しいときも、という表現はちがうな、むしろ、楽しければ楽しいほど、わたしはその音楽や演奏者とはまったくちがうことを考えている。もちろん音楽や演奏者のことを考えているわたしもいて、でもそうでないわたしも複数いるし、わたしはそれらのわたしのことを、いつも許容している。わたしにとって音楽、あるいは音楽と限定しなくてもいいのかな、あらゆる自ら求めて行うインプットはすべて、思考の契機となっている。なにかを考える、その燃料として外部からの情報を求めている。音楽も文学も絵画もすべて、それを受けてわたしがなにかを考えるための燃料、食料に過ぎない。いつだったろう、まだ十代か、あるいは二十歳になったばかりか、それくらいのころにわたしTと美術館に行って絵画を観た。そのときわたしTに、「美術館にはおなかをすかせていった方がいいんだよだって絵画を観ることと食事をすることはとてもよく似ていてだから空腹状態の方が餌である絵画に対して貪欲になれるんだ」という主旨のことを言った。彼女は今でもたまにそのことを話のたねにする。だから忘れっぽいわたしも、未だに自分のその言葉を覚えている。そしてあのころの感覚と現在の感覚はさほど変わっていなくって、わたしは未だにおなかをすかせて美術館へと行く。多少変わったことと言えば、おなかを満たしてお酒を入れて、満ち足りた状態で行く美術館には無駄っぽさとおやつ感があって、つまり贅沢ってことでとってもすてきだな、と思うようになったくらい。それは規範の希釈であり行動倫理の拡大でもあり、もっと別の言葉で言えば怠惰になったと表現することもできる。でもそれは、その言葉で表現できるということは、行動原理の根幹に変化がないという意味でもある。「なにかを受容するということはなにかを食べるということ」。その認識は未だにわたしの根っこに居座って消えることがなく、ときおりわたしを混乱させる。
ずっと、ここ数年ずっとわたしの思考の主題となっているのは、「物語的消費」のことだ。たったそれだけのことを、ずっとずっと考えている。思考は言葉よりもずっと速くとりとめもなく、捕まえたと思った瞬間にもう認識できなくなっている。自分の思考は常に自分よりも速く、捉えきることができない。
物語的消費、あるいは、自分とは遙かに遠い他者をフィクションとしてキャラクター化し一つの明快なストーリーとして消費すること。誰かの言葉を、感情を、人生を、「読む」こと。
あの子たちが芸能人のゴシップを楽しむように、わたしは本を読みます。
わたしが本を読むように、あの子たちは身近な誰かを劣悪な言葉に変換します。
両者の差異を僕は未だに見出すことのできないままでいる。
ぼくたちが、ぼくたちの誰もが、消費せずにはいられない「物語」とは、その正体とはいったい、なんだ?他者を物語として消費することの罪悪とは、その根幹とは、はたしてどこにあるんだろう。


三月の行けなくて悔しかったで賞は、六日のライブラリ@四谷。ライブラリのライブ、わたしまだ一度も観られていないのよね。あとは記事中でも書いたけど、中納さんのグローブ座、SPANK PAGEのO-WESTも行けないの悔しかった。ああ、たくさん観たいな、どんどん観たいな、あらゆるものを切り取って貯金箱に仕舞って、ふたたび取り出すこともないまま醗酵させて腐らせたい。あるいは知らない間に化石にさせて、そしてわたしはそれらのいっさいを関知しないまままったくちがう化石になって、静かに死にたい。わたしは誰かを消費したい。誰かを物語として、恣意的に消費したい。
わたしはあなたを喰い潰す。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。