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海底は歩かない

プラツリの秋ツアーFC先行がもうすぐ〆切になるので東京のチケットでもとるかな〜と重い腰を上げようとしていたらものすごくタイムリーにとっても脱力するような情報が入ったのでなんかもういいかなあと思った。ちょうどFC更新の時期なのだった。FCなんか入っていたところで会報は来ないしFCライブもそうそうやらないしやったところで小箱関東限定で行けるかどうかもわからないしメンバープロデュースライブも結局二巡すらしなかったし、なんかもうどうでもいいな〜。またどうしても行きたいライブがアナウンスされたら入り直せばいいかな。真偽を確認する手段がないので真偽はよくわからないのだけれど、事実でも単なる悪意による憶測でもさして驚かないし、仮に事実であった場合、いい加減「事務所ガ事務所ガ運営ガ〜」じゃなくてGOサイン出してんのはメンバーだろ、と思います。
先日友人と会って話したのだけど、わたしの理想は2012年に一度体現されてしまっているのであった。2012年シングルの静脈くちづけシオンの三作、あのみっつ、は本当に特別だし大切だし、そしてそこで完結してしまえるくらい理想だったのだった。インクはいま聞いても本当によいアルバムでずっと大切にする、あれは本当に素晴らしいアルバムだった、アバンギャルドとカナリアを除けば。
中山さんのプレイの変遷とかそのときどきのブームの話もいくつかした。あの人はそれが顕著に出るタイプの人だ。そういうところももちろん好きだ。だから今は、だからこそ今は、しばらく離れていてもいい。ぜんぜん問題ない、後悔しない。そう思える。円盤にパッケージされた理想を眺める。これを十全に聴ける環境を整えるためにお金を使う方が、FCを更新したり遠征したりするより、音楽的な満足度はずっと高いだろう。つまりわたしは、彼がいつか言った、バンドを壊すファンなんだ。それはそれでまた、面白いかな。

今日はSTスポットで「海底で履く靴には紐がない」を観た。半分くらいで飽きたけれど、面白かった。そのうちちゃんと感想を書く。
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蛇の尾

本を数冊読んだ。何冊かはおもしろくて、何冊かはつまらなかった。仕事でいくつかの街に行った。付き合いでいくつかの宴会に出た。知り合いのお見舞いに行った。後輩にカウンセリングを薦めた。同僚の知り合いが死んだ。ほんとうによく人が死ぬ業界だ。気持ちはわかる。(わかるわけがない。)性格診断はいつもINTPかINTJになる。いくつかの高級オーディオの試聴をした。2012年がわたしにとって本当に、その時点における理想だったのだとゆっくりと思い知った。パッケージを抱き締める。ここに閉じ込められている。美しい理想的な再生環境があれば、もう現在は、いずれまた必要とするときまで現在は、必要ないのかもしれない。現在でも過去でも大差ない。過去でも未来でも大差ない。めちゃくちゃねむい。週に四日は泳ぐ。シンプルに回帰する。基礎の強さを信じているのか?反復は落ち着くだろうか。誰もに固有の儀式がある。わたしにも固有の儀式がある。敬虔な信仰で純化して透明になる。中身がよく見える。わたしをクリアにしろ。そのオーダーを受けて、わたしはクリアになる。よく見える中身をよく見ろ。(わたしは盲いている。)基礎の強さを信じているのか?(強さは善ではない。)(善は美ではない。)わたしがあなたでないことと同様に、わたしはわたしではない。

シーラカンス、きみは夢を

 労働は対価でお金をくれる。お金がだいすきなわたしはだから、お金サイコーだ、労働サイコーだ!と常々は思っている、というか思うようにしているのだけれどキホン本質的には働きたくないので日にいっぺんは仕事ヤメテー労働サイアク日がな一日お部屋でゴロゴロもふもふクッションとフォーリンラブ&すんやり寝てたいお部屋ラブラブフォーエバー堕落、なんて思っている。でもラブフォーエバー堕落、なんて思っていてもそれを実行するとわたしは生存できなくって生存できないのならばやはりわたしは労働しなくてはと思いつつしかしはたしてわたしはそもそもいったい生存したかったのかしらんなんてどうだっていいことを考えだしてえゝえゝそうねあたしは決して生存などしたくはなかったのだというかより正確に言えば存在などしたくはなかったのだそもそも生まれたくなかった発生したくなかったこの世界において定義付けされたくなかった!それをされてしまったから継続せざるを得ないこのダラダラなダラシナイ逃避とか妥協とかそれってどーなのよ安易、それはもふもふクッションとフォーリンラブなラブフォーエバー堕落よりもはるかに次元の低い堕落であり地獄に堕ちるべき下劣低俗な所行、しかしわたしは地獄の存在など信じていないのであって信じていないのならば地獄になどたとえ堕ちたとしても自意識の中では堕ちるわけないしであるのならばあらゆる罰は無意味となってわたしはどこまでものさばってのさばって野草、もりもりはびこってあなたの庭だってわたしの存在でいっぱいになるよ。てゆーかなんの話してたんだっけ?

 お金の話かな。
 お金の話だね。

 お金を愛しているわたしは対価としてお金をくれる労働のこともお金ゆえに愛しているっちゃ愛しているのだけれど、お金にならない労働というものも残念ながららこの世には多数存在しているのであって、そういったもののただなかにあるとお金を愛するわたしのこゝろはささくれだって拗ねちゃったり荒ぶったりしちゃうっていうスンポウである。そんなわけでだいぶ遠回りしてしまったけれども、ささくれだって拗ねちゃったり荒ぶったりしちゃっているわたしはこゝろのままに深夜の街に繰り出してお酒などのんでしまうのである。あーもーマジで太るからって理由でさいきんは避けているけれど醸造酒よ、要するに日本酒とワインちゃんよ、てゆうか今現在においてはズバリビシリピンポイントでバシッとワインちゃんよ、あたしはやっぱりきみがだいすきだ!さいきんつれなくしててとってもごめんね、でもやっぱりきみがいちばんだよ!!エクスクラメーションマークみっつもついちゃう!!!なんて気持ちでたまたま安く口にすることができたボトル¥2,000の白ワインをグビグビとのんでいるのだ。
 この街のこと、わたしは正直すきじゃない。プライベートでも仕事でも、たまに訪れる街だけれど、やっぱりそんなにすきじゃない。思い出ならあるんだよ、たとえば初めての遠征だったなとか(もちろんPlastic Treeだ)、初めてjane marpleのお洋服を買った場所だったな(ドンルのツーピースだった、ヘビロテし過ぎてへたってもう捨ててしまった、でもだいすきだった)とか。でもやっぱり、そんなに好きじゃない。飲食店をフラフラしているとよく思うのだけれど、なんというか、とっても成金チックなのだ。素朴な居酒屋とか安いビストロとかはたいてい強烈な甘辛嗜好だし、ちょっと高めの値段設定のお店はその値段に見合わないバカっぽい安っぽさなのだ。さっき行ったワインバーは、クラシカルな制服を定めたキャバクラみたいだったし。横浜のど真ん中でもこれはないよねっていう強気の価格設定もなんだかな、商業で栄えた街の土地柄なのかなあ。でもこの土地に根付いている人たちがふだん行くお店にわたしが出会えていなくって、観光客向けのお店にばかり吸い込まれてシュ〜ンとしているだけなのかもわからん。
 でもこのお店はいいなって思う。わたしがいまいる、いまここにいる、こうやって記事を書いている、お店。それはいいなって。わたしは。そうやって。
 沖縄のことを思い出す。沖縄の那覇の隅っこにある、ゾウカフェのこと。ビオワインばっかり置いてあって、この土地柄でこの場所でこんなコンセプトでお客さんちゃんとくるのかなあ、なんて客を不安にさせる経営形態で、でもとってものんびりくつろげて、居心地のいい場所だった。あそこもこんな雰囲気だった。のんびりとしていて、でも料理はちゃんとしていて、ワインだって全方位網羅型のどこからでもかかってこい有名どころはガッチリあるぞ、という感じではないけれど、こんなん最近のんでおいしかったんだけどあんたもど〜よ?みたいな気楽な雰囲気で。わたしだいすきだった。この店はあそこと雰囲気が似ている。街の隅っこにあって、若い人たちがやっていて、のんびりとした時間が流れていて。イギリスのバンドの名前がつけられている。写真も飾られていて、壁にはサインだってあって。それはわたしのすきなバンドではないけれど、わたしのすきなバンドの系譜にあるバンドだ。もっとちゃんと聴かなくっちゃ、と思う。帰ったら、もっとちゃんと、探して聴かなくっちゃ。こんなお店をつくっちゃうようなフリークス、熱狂的なファンのつくバンドなんだから。誰かがすきな何かの話をきくのは楽しい。誰かがすきな何かのことをおもうのは苦しい。楽しい。苦しい。苦しい。

「好き」ってなにかしらね。「好き」の「ver.A」と「ver.B」があった場合、「ver.A」と「ver.B」の間に、優劣はあるのかしらね。「ver.A」と「ver.B」を兼ね備えた「ver.AB」、あるいはそれらのいずれをも有さない「ver.(AB)'」があった場合、それらと「ver.A」及び「ver.B」との関係はどうなるのかしらね。そしてそれらの好きと対象である存在との関係は、どうなるのかしら。


水の音が好きだ。ずっとむかしから好き。たとえば雨とか。たとえば海とか。たとえば浴室とか。あるいは梅雨の薄暗い午後のキッチンの、蛇口からぽつぽつと音もなく音を立て滴る、その雫とか。そういったものたちが、わたしはずっと好きだ。その音を聞いていると気持ちが落ち着く。このまま最後になってくれたら、どこまでもしあわせだと思う。これ以上欠けることもなく、安心で安全、静かに眠れるのだ、と思う。
想像をする。
骨になったわたしが深海に沈んで、そこに魚が住む。幻視。そこはとても静かだ。音のない静か。光のない静か。命のない静か。わたしのない静か。
深海。


この記事のためにさいきん行ってないゾウカフェを検索して、既に閉店していることを知った。今までありがとう。短い間だったけれど、とても素晴らしい時間を過ごすことができました。ほんとうに、ありがとう。
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