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名前のない

昨日の昼食は参鶏湯だった。唐辛子のたっぷり入った、体がじわりと温まる参鶏湯。会社の同じチームの人たちと、「ランチミーティング」という名称の単なるお昼ごはん会をしたのだった。経費が会社持ちだったので、素直にありがたくいただいた。
参鶏湯は辛さを選べたので、六段階あるうちの二つ目を選んだ。唇と舌がピリピリ痺れる辛さ、でも味がしっかりしていておいしい。辛いだけじゃなく味に深みがあって、ドロリとしたスープは、飲んでいるというよりも食べていると表現した方がいいような。さまざまなものが形を失って溶け込んでいる。複雑な味がしてたのしい。ジワジワ汗がでる、唇がピリピリ痺れる、舌の上で転がしていると、溶けてグズグズになったいろいろなものたちの味わいがする。
このお店は激辛が売りだったようで、最高の辛さは病院に運ばれた人がいるとのこと。辛いものは好きだけれど辛いだけのものは好きではないので、わたしは二段階目のものがいいな。ちょうどよい辛さでとてもおいしかった。でも同じチームの人たち、他の人たちはみんな普通の辛くない参鶏湯か一段回目のピリ辛参鶏湯を頼んでいたのだけれど、わたしがたべていた二段階目の辛さのものを、「味見」と称してちょっとずつ食べては咽ていて大変不本意だった。ちょうどいいよ。おいしいよ。わたしはべつに激辛好きではない。

時間をすこし戻す。
ランチミーティングの前、昨日の朝、わたしは「今日はランチミーティングとやらがあるぞ」ということをすっかり忘れていて、出勤前に羊の肉を焼いて食べた。先週の日曜日、近くのスーパーで、塊が安かったから。朝から200gくらいの羊のステーキを焼いて、それをスライスしてトマトソースに絡めて、茹で上げたフェデリーニと一緒に食べた。
その負債があったので、お昼はちっともお腹が空いていなかった。参鶏湯は意外に量が多くて、これくらいよゆう・よゆう・なんて思っていたら食後にかなりの大ダメージを食らった。胃よりも上に参鶏湯の気配を、夜までずっと感じていた。仕事中もずっと参鶏湯の存在を感じていた。死してなお存在を主張するか。なんて気概に溢れたやつ。

参鶏湯の気配をずっと感じていたので、晩ごはんを食べるのはやめた。帰宅したら部屋中が羊のにおいになっていたので、とりあえず換気して、干してあった洗濯物たちはラムフレンドリーになっていたので洗濯し直して、ついでだから部屋の大掃除をした。物の配置を変えて、服を入れ替えて、本棚とCDラックを整頓した。掃除は嫌いなのだけれど、一度始めると興が乗ってくるもので、だんだん楽しくなってきてDVDを流しながらあちこちの埃を落として回った。DVDは、三月に行われたアーバンダンスの三十周年記念ワンマンで買った、二月のジョイライドの映像だった。エンドレスでループする映像。たった五曲の。素晴らしかった記憶の。音の。掃除をしながら流していただけなのでほとんど映像は見ていない、口ずさみながら音楽を聴いているだけ、でもときどき画面を見ると、森岡賢さんがあの華やかなルックスで踊っていた。minus(-)のチケットはそろそろ発売だったかな、と頭の片隅で考えた。

だから訃報を知ったのは、掃除を止めた深夜一時頃のことだ。
今年に入ってから、ボウイが死んで、エマーソンが死んだ。わたしにとってとても大切なアーティストたちが、溶けるように死んでいく。死んでしまったら終わりだ。それ以上はなにもない。でも死んでも消えることはできない。データを消去しきることはできない。作品は完成した時点で作者とは切り離される。作品は単独で、永遠に存在して残り続ける。それは時間軸を喪失するということだ。作品と出会う誰かがいつ作品に触れるか、それだけが時間の起点となり、常に新しく在り続け、同時に、どんどん古びて溶けていく。死んだ人たちの遺した音楽が、ファッションが、言葉が、グズグズに溶けて混ざっている。わたしの言葉は、指は、溶けてグズグズになったいろいろなものたちの味わいがする。かつて存在した誰かの分断された破片が混ざり合っていて、まだこれ自体に、固有の名詞を与えられないままでいる。冥福を祈ることなんて永遠にできそうにない。今もまだ死んだあの人たちの影に出会い続け、新しく貪り続けている。
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