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お前は可愛いね

できるだけ人間と会話をしないで生きていくことはできないだろうか。極力他者には会いたくないし、声も言葉も聞きたくない。本当は目が合うだけでも嫌だ。認識されたくないし認識したくもない。目が乾燥するから目薬をさす。じわりと拡がって眼球が融け出しそうになる。眼球が融け出したあとには丸い穴が空いていてそこは空虚だ。空虚な骨の器。無いが詰め込まれている空間。黒くて奥がない、のっぺりとして奥行きのない、認識と言葉と声のない。好きな人たちのことは好きだから会えると嬉しいし話せると幸せ。でもつらい。四六時中誰かが傍にいるならきっとその人を殴ったり蹴ったり刺したりしたい。苦しそうに呻いてみっともなく泣き喚く、あなたの惨めな姿が見たい。
言葉は汚いな。なにを誰にどうやって伝えようと思っても、自分の状態や感情を整理しようと試みても、どのように組み立てても整然とさせても雑然とさせてもただただ醜い。花みたいに咲いたり散ったりと忙しなく、そこに在ることを誇示するのは卑しい。本質的には言葉の問題ではない。言葉が卑しいのは言葉を使用する個が卑しいからであって、それ以上でもそれ以下でもない。打ち上げられた鯉のように口をパクパクとさせて目を見開いている。無為にしかなれない丸い気泡が浮かんでは弾ける。伝われば卑しい。伝わらなければ醜い。言葉は汚い。
適切な言葉で適切な姿を見せることは訓練だ。訓練でできるようになること。適切な言葉で適切に振る舞う綺麗な人たち、それは獲得されたものであって最初からそうだったわけではない。だからそれをただ羨むのなら浅ましい。対価を払わずに嘆くだけなら。一歩も動かずに生ぬるい泥濘から妬むだけなら。

この週末に初めて、栃木と福島に行った。那須高原と喜多方と会津若松だ。駆け足だったがとても楽しかった。かつて時間を共有した人たちと、共有した時間が終わってから、再度時間を共有できる機会があることは奇跡だと思う。なにかが変わることを考える。なにかが変わらないことを考える。
髪が伸びるのも、爪が伸びるのも、全て煩わしい。体なんて早く亡くなってしまえばいい。胃の中に食べ物を詰め込む。お酒を飲んで咳をする。そろそろ部屋の暖房を入れ始める時期だから、ゆっくりと室内は乾燥する。ラベンダーの香りをまき散らすだけのアロマディフューザーは、室内の空気を潤すには、あまりにも容量が小さくて儚い。一生懸命ヒトに歯を立てる、ちいさな働き蟻のようで可愛い。おまえは役立たずだね。おまえは無価値だね。おまえに有用性はないね。おまえは可愛いね。
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シークエンス

わたしが文章を規定するように文章がわたしを規定する。ここ最近は本当にどうでもいい文章を量産していて、それは仕事だからなのだが、精神がカスカスになってなんだかちくわのような気分だ。ちくわ。中が空洞でふかふかと柔らかい、味が染みやすいといえば通りも良いが、要するに朱と交われば朱くなりやすい。おいしいし食べやすいかもしれないがわたしはぐにゃりと噛まれると吸収した周囲の環境をぐちゃりと吐き散らしながらすぐに消えてなくなってしまう。些細なおやつ。きゅうりくらい詰めてあげたいけど。
とはいえこういった不満はどういった形にしても文章を書くことで生計を立てられるようになったから生まれる不満だとも思う。くそみたいな文章でも指を動かしてキーボードを叩いているときのわたしは楽しい。他のどんなことをしているときよりも幸せ。ただ思考の走らない文章は踊らないダンスのようでつまらない、拡がらない音楽のようで悲しい。わたしのフォーマットをわたしが忘れてしまわないように、なにしろわたしはちくわで大変味が染みやすいのだから、失くしてしまわないように、どこかに保存しておかなければ。わたしのためのプラットフォーム。わたしの規範を乱すことはわたしが許さないし、わたしの規定を崩すのであればわたしなど死んでしまえばいい。わたしはわたししか許さないし、わたしの言葉はわたしだけでいい。たとえばそのわたしの内訳が世界中に存在するあらゆるわたしが愛するものたちの切り貼りに過ぎないコラージュであっても、そこに名前をつけたなら、それはわたしだろう。ずっとそうだった。ずっとそれに過ぎなかった。下らなく卑しいものを大切にしてあげたい。せめてわたしだけは大切にしてあげたい。その主体がなんなのかもはや自分自身でも理解できなくても、あの子に優しくしてあげたい。

Drop us all, you should drop us all / drop us all and free your hand

振り返ると同じ場所に立っている友人が見えて、そこはかつてわたしが居た場所と近いのだが、そこに居たときの感情を思い出せない。わたしはわたしの身体に於いて前と定義される方向へと歩いているので前に進んできたような錯覚を覚えるのだが、同じ場所に立っている友人とわたしの居る場所に座標値は定められておらず、だからこれが前なのか後ろなのかはわからない。あるいは上なのか下なのかも。ただ絶対値が離れてゆく。文章を読むと透明でどろりとした塊がみぞおちから零れだすような気がするが、当然物理的にそんな事象が起きているわけではない。エアコンの設定温度が高くて寒い日なのに汗をかいて、檸檬の入った炭酸水を飲む。わたしはどんなフォントが好きだったっけ。わたしはどんな漢字が好きだったっけ。わたしはどんな接続詞が好きで、どんなオノマトペが好きで、どんな形と質感と湿度を持ったかなしみが好きだったのだっけ。
眠れない夜はなくて、無意味な言葉を反復して生活する。生活できてしまう。苦しくないことを苦しむことは馬鹿らしいだろうか。友人や恋人が死んだら苦しいのだろうか。あるいはそれすら大して苦しむこともなく、ただただ通過してゆくだけだろうか。疑問を繋げて文章を刻むことはひどく稚拙でつまらない。わたしをジャッジするのはわたしだけでよかったはずだ。それは精神が維持するものだ。どれだけ阻害されても覆されないもの。地べたを這っても誇り高くあれ。
音楽を聴く。聴き慣れた音楽を聴いて、そこからもっと遠くへ行きたいと願う。近頃はインプロヴィゼーションばかり聴いていて、それは即ち生まれた瞬間に消えてなくなる音、固定値を持たずただ自由であるだけの声、死ぬために奏でられた歌。ノイズ。どんな風に拡がっても、あるいは収束しても、一度聴いたそれを留めておくことはできない。どうして食事をしなければ死んでしまうのかな。口に入れて咀嚼してグチャグチャになったかつての存在は、わたしに取り込まれてわたしになってしまわない。ただ消失する。消失するのだと思う。食らった生命はおまえの血となり肉となるのだと正しい言葉たちが啓蒙するが、わたしの血や肉はわたしではないと思う。どうしていつまでも肉体があり、わたしは肉体に従属するのか。寒い日に汗をかき、檸檬の入った炭酸水を飲む。珈琲はもうなくなってしまった。新しく淹れるために立つことが億劫だ。指先だけがわたしでしかないのに。
友人にメールを返していない。いつからが手遅れで、いつからが喪失だろう。かなしいことにわたしは、平穏に生活を繰り返しているのに。
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