FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

美しくないことによって意味が失われること

今のiMacを購入したのはいつ頃だったかな。前の部屋に引っ越してしばらく経ったあとのような気がするから、三年ほど前のことかな。過去はすべて過去というフォルダの中にぐちゃぐちゃと詰め込まれているだけだから、その中に区分はない。一年前も、五年前も、十年前も、一秒前も、全部同じだ。全部全部同じ。それらは等しく、取り返しのつかない、もうどうしようもないものたち。
あの子を買ったのはiPhoneを購入した少し後で、そうだから、ああ、じゃあ二年くらいしか経っていないのかな?いずれにせよ過去には違いないか。そう過去に、iPhoneを購入したから、いっそiMacに買い替えてしまえばいろいろと管理が楽なんじゃないかと考えて買ったのだった。今のiPhoneを購入した理由が「その前に使用していたガラケーをなくしてしまったから」で、そのときわたしは電話帳と音楽と写真のデータの空白を目の前にして、すっかりと途方に暮れてしまったのだった。自宅のPCで簡単にバックアップできればこんなに途方に暮れなくてもよいはずで、だからもうiMacにしようかなと思ったのだった。
でも一番の理由はそれじゃないな。一番の理由は、やっぱりフォントかな。ビッグカメラのパソコン売り場で、整然と並んで、歩くわたしの視界を連続して素通りするたくさんのディスプレイの中で、彼らが一番、フォントが美しかったから。その画面で見る文字は滑らかに美しく、見るたびに感動を覚える形状をしていて、結局はそれが一番の決め手だった。文字が美しければあとはほとんどのことがどうでもいい。文字が美しいだけでそのディスプレイには価値がある。
フォントが美しくないと仕事をする気にならないな。汚いフォントを見ていると苛々する。文章を読む気にならない。それは文字ではなく汚い絵だ。そのように認識するんだ。醜い形に止め置かれて、それ以上変化することもできず、固定されてしまって、取り返しがつかない。言葉として意味を受け取ることができない。美しくないから。美しくないという理由で。文字が言葉になれない。じぐざぐしたみっともないフォントは、完治したあとも引き攣った形で残り続ける傷跡のようで悲しい。ばかばかしい。

最近めっきり観たものの感想を書いていないから、たまには書いとく。

20161210 sat マームトジプシー「ロミオとジュリエット」@東京芸術劇場
素晴らしかった。最終場面から小刻みに、同じシーンを何度も反復しつつ小刻みに、時間を巻き戻しながら物語が展開していく構成が美しかった。
シェイクスピアの仰々しい台詞、日常では決して用いない言葉が、言葉の意味以上に舞台装置として機能していた。形容詞が多く実態に乏しい、しかし美しい台詞たちが絶え間なく繰り返され続けて、その繰り返され続ける虚ろな言葉たちを反芻することによって舞台上の出来事はどんどん条件付けされていく。始めから終わりまで何度も何度も反復される、「夕べ夢をみた」「わたしもみた」「どんな夢?」「夢をみるやつは、嘘をつくっていう夢」という一連の台詞たちが、条件付けが重ねられてゆくたびに、どんどん質量を増して重く重くなってゆくさまが印象的だった。
ロミオ役は青柳いづみ、それが本当に素晴らしくって。硬質で透き通った声、常にどこか憂いが滲む瞼!こんな役者他にいないなあ、としみじみと思わされる。

そう、ロミオ役は青柳いづみで、衣装も普通に女性のもの。でも別に「女性と女性の物語」的な印象は受けなかったし、わたしは単なる記号とトーンの問題だと思っていたので、そういう見方があることにびっくりした。もし「女性と女性、禁断!」的な意図があっての改変ならちょー笑ってそのあとにがっかりしてしまうので、事前情報なしに見て受けた「音と質感を記号的に統一したんだね」という自分の印象をそのまま大切にしておこうと思います。

小道具も大道具も衣装も音楽も、本当に素晴らしくてとっても満足。ただ、付け加えられた要素である「きよちゃん(ひよちゃん?)」は蛇足だなと思った。あそこだけ舞台上に演出家の顔と声と自意識が透けてみえて、作品として美しくない。そういう役割なのかもしれないけれど。




20161213tue THE LOST BOYS PRESENTS INTO IT. OVER IT. JAPAN 2016@WWW X

toeが本当に楽しくって、でもそれよりなにより、WWW Xの音響の素晴らしさにびっくりした。WWWもそこそこいいけど、あそこはフロアのどの位置で聴くかによってバランスめちゃ変わるから、あんまり好きじゃなくって。でもWWW Xはよかったなあ。
都内中箱の音響最強はリキッドだと思っているのだけれど、ちょっと揺らいだかな。印象としては、ハイもロウもクリアに出る感じ、わりとパッキリしていて音の分離性がいい、解像度が高い印象。硬め。最近あんまりリキッド行ってないから(今年の2月が最後かな?)今度リキッド行ったらまた感想変わるかもしれないけど、ミドルはリキッドの方が強いのかなあ?とか思いながら聴いてた。久しぶりにリキッド行きたいなあ。カウントダウン行こうかな。

初見のIIOIはメロディアスでシンプルなエモっぽいバンドで、聴いていて気持ちよかった。いい意味で展開がベタで、「次はこうくるかな?こうくるんでしょ?ほらきた!」みたいなノリやすさがあって楽しかったよ。でも、聴いていて気持ちよかった以上の感想にはならなかったかな。演奏面も特筆すべき箇所はあんましなくって、驚きや発見からくる興奮もあんましなかった。数曲聴いて満足したので、MCの途中で外に出て、空腹を癒すために焼き鳥屋さんへとおもむき、思うがままに焼き鳥をたべた。おいしかった。Kさんと一緒に行って、お互いに「23時には帰ろう!」とか言ってたのに、結局電車に乗ったの24時近くだった。どうして今日は金曜日じゃないのかな…とか呪いの言葉を垂れ流しながら帰宅して、寝た。よい日でした。

で、WWW Xってなんて読むの?ワロスエックス?
スポンサーサイト

あたらしいくすり

悲しくなったり苛立ったりやりきれなくなったりしたときばかりに日記を書くから必然的に日記は暗くなるのだけれど、別に日々日々日々日々悲しいわけではない。さみしいな、とか、かなしいな、とか、腹立たしいな、とか、そういった感情たちは確かにいつでも腹の中に住んでいていなくなることはない、あの子たちの存在をわたしはいつだって感じている、生涯を共にする伴侶、でもあの子たちは騒ぎ立てて自己主張をたくさんするタイプの子でもないの。
だから最近の懸念事項はそういった内的なものではなくって、自転車のチェーンとブレーキのこと。そろそろチェーンは交換した方がいいし、ブレーキも調整した方がいい、でも近くにいい自転車屋さんがないんだよね。以前利用していた自転車屋さんは今の家の近くには店舗がないし、どうしようかな。自分でやってみようかなと思ったけれど、冬だし寒いから嫌だなあ。できればお店にお任せしたい。最近の悩みはそれくらいかな。

グレッグ・レイクが死んじゃったみたいで、今年はキース・エマーソンも死んじゃったから、あーあ、といった感じ。年を重ねて年を重ねて年を重ねてゆくごとに、どんどん好きなミュージシャンが死んでゆくようになっちゃうんだろうなあ。もちろん進行形で、若手のミュージシャンもどんどん好きになってゆくから、老いた人たちがぺろぺろ死んじゃってもこの世から好きなミュージシャンが全ていなくなってしまうなんてことはない。でも死んでしまっても音楽は残るから、好きなものは総量を喪わずにただ堆積していって音色の記憶が重い。わたしは記憶力が乏しくっていつだってなんだってすぐに忘れてしまう、でも具体的な事象が消えてしまっても、印象は残る。印象だけが遺る。音楽を聴いて動いた心のことを覚えている。今はもうその動きに同期できなくなっていても、かつて描いたその軌跡を思い返してなぞることはできる。かつてあった情動を思い返す。遠く懐かしむ。薬物中毒患者のように、より強い刺激を求めようとして、また知らない音色を探す。それに手を伸ばす。聴いたことがない音楽を探しながら、もっと遠い所へ行きたい。もっと遠いところへ行きたい。

日本酒が安いと嬉しい

誕生日なので恋人と別れた。寒い中のよい日。あの人の言葉はわたしに理解できない。
一般的に定義される範囲内で「付き合う」と呼ばれる行為を行うのはとても久しぶりだったのだけれど、わたしは相変わらずそれをうまくできない。きちんと日記に書いて残しておこうと思ったけれど、それすら上手にできないみたいだ。彼女のことをうまく思い出せない。大事にできないし、大事にできなかったし、これからも大事にできない。大人になったらわかるよと無責任にずっと言われ続けたけれど、大人になっても相変わらずわからない。好きな人の定義とはなんだ。
そんなことはどうでもよいのだが、友人とおいしい日本酒を飲んで、おいしいごはんを食べた。シャワーを浴びて食器を洗ったので、そのままふわっと眠る。夜は寒い方がいいし、寒くない夜は煩わしい。寒い夜が寒い夜のままであるのは美しい。ただ遠くから見ている。

壊れたレコードの話

さて十二月だ。好き。冷たくて。乾燥していて。指先が悴んで。息が白く濁って。そしてすぐに消えて。最初から誰もいなかったみたいに、静まり返って沈黙、それがよく似合う景色だから。
空気が冷たいといきもののにおいが少なくなる。草花が息をひそめる。遠くの音がよく聞こえるようになる。冷たい空気を切り裂いて微かにしかし長く震えるような、繊細ででも長くとどまるような、そんな硬質な音が好きで、だから冬はいつも好きだ。空気が冷たいと嬉しくなる。もっと寒くなればいい。いきものに体温があるという事実をすっかりと忘れられるくらいに。通勤中に排気ガスを全身に浴びて、でも愛しいな、にんげんの体温やにおいより、無機物の方が美しい。生まれ変わるなら鉱石がいいけど、なにか派手なものになるのであれば、無人の車やバイクがいいな。誰も見向きもしないような、錆びていて冷たい、もう死んでいる、誰を運ぶこともない穏やかに朽ちる鉄くず。

重用されたいな、重用されたいな、どうか満たされたいな、指先の動きひとつから舌先のさえずりまでにそれをビリビリと感じて、皮膚の表面が焦げつくようだ、あなたの自己愛を見ている。よく見覚えのあるそれはわたしが抱え込んでいるものと相似で、でもまだペットにしきれていないな、永遠に引きずるものとして飼いならしきれていないな、浅ましいものを浅ましいままに晒していてはかわいそうだよ、喉が渇いて水を飲む。わたしは鈍化して鈍化して摩耗して、わたしという個をすべて消失していなくなりたい。だからわたしが定義するわたし以外のわたしが誰かに定義されていること、前者と後者の間に大きな隔たりがあること、そんなことはどうだっていいんだ。あなたのことをわたしは知らないし、永遠に知れないし、知り合うことはできない。あなたはあなたの虚像と話すし、わたしはわたしの虚像と話す。あなたとわたしは会話できない。でもその「会話ができていない状態」を「会話」と定義すれば、虚像を無視すれば、もうそれでいい。わたしはわたしの虚像をあなたと定義して、わたしの内部だけを世界全体として扱う。だからもういい。あなたのあなたやあなたのわたしは、永遠に観測できないままでいい。

ところで野菜が高い。ライブに行きたい、本を買いたい、CDを買いたい、好きな服を着たい、という四大欲求に対しては際限なくお金を使うけれど、それ以外はあまり贅沢をしないようにしているので、わたしの「この値段なら野菜を買ってもいいよ基準」はかなり安い。しかし今年の冬は、ほとんどの野菜がその基準をなかなか下回らない。毎年冬場は野菜を煮込んで食べるだけのいきものと化すのだけれど、これでは野菜を満足ゆくまで煮込むことができない。転職して大幅に給料が下がったので、できるだけおとなしく生活したいのだが、野菜を煮込まずに生きることはできないので、「この値段なら野菜を買ってもいいよ基準」を上げなければならない。1/4で150円の白菜なんて買いたくないのに、屈辱だ。ぐぬぬ。
野菜を煮込むのは好きだ。わたしの部屋はよくある1Kタイプで、玄関の扉を開けるとキッチンで、その奥にちいさな部屋がある。ガスコンロはキッチンの奥、つまり部屋の近くにあって、そして室内でのわたしの定位置は部屋に入ってすぐの机の前。野菜を煮込みながら室内で本を読み、弱火でじっくり、ポコポコという細やかな気泡のたちのぼる音を聴きながら本を読む。こういうとき音楽はかけない。本を読んで、ページをめくって、耳元にはやわらかで控えめな音、次第によい香りが室内に広がって。野菜はくたくたになって体を小さくする。すぐにわたしにたべられてしまって、消化されてしまう、胃の中に熱を落とす。食べて、食べて、食べて、消化して、煮込んで、食べて、消化して、煮込んで。行動がぐるぐると回って退屈な輪を描く。わたしをすり減らしたい。壊れたレコードになりたい。ただの行動と結果となって、いつか消えたい。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。