FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

きのうとちがうかいぶつ

定義するのは難しいが、日々の細やかな定義づけの連続こそがある一定期間のわたくしのプログラムを成立させるのだろうな。あたしとわたしは随分と乖離しているので。
最近はどこにも発表しない小説をぼんやり書いているのと、ごくまれに「あー」と思って詩を書いて物置に放置するのと、あとはライブに行った感想をはてなのブログに書いてる。はてなの方のわたしはできるだけポエティックで伝わりづらい言葉を使用しないようにしているからわりとまともなんじゃないかなーと自分では思っているけれど、逆に言えばそれってつまらないことだね。でも整えるとつまらなくなるようなものは最初からおもしろくない可能性が高いし、つまりあたしは今あたしに対して十全な愛情を保てていないのではないかしらん。もっとナルシスティックになりたい。
自分の上限のことをたまに考える。自分の指で記録する文字列の上限について。あたしの全力っておそらく一日一万字くらいで、そしてその一万字にどれだけの熱量と愛情とあたくしそのものが入っているかどうかはあんまり関係なくただただ諾々と必要に迫られて書いたどうでもいい書類の一万字だとしても、そこで消費された文字数はもう帰ってこなくて、仮に時間と情熱が余っていたとしても残りの時間を使って自分のための言葉を綴ったりすることができない。一万字くだらない文章を書くことで、その日のあたしのあたしのための一万字が死ぬ。不本意な文章の製造は自殺に近い働きをする。あたしは日々あたしをぶち殺しながら生きているのね。生存なんて日々の死亡と甦りだ。人生がフェニックスだ。

固定した過去がわたしを糾弾するさまをときどき傍観する。かつてのわたしが絶対に赦さなかったものを怠惰に許容するわたしをあの子が詰る。泣きながら叫んで地団駄を踏んでいる。かわいそう。かわいそうだね。でもおまえの指はおまえだけのものだろ。おまえの言葉はおまえだけのものだろ。いまのあたしは混ざりものだから、きみとはもう違うし、きみが糾弾する権利を持つのはおそらくわたしのうちの三パーセント程度に過ぎないんだよ。
でもそう言えばあの子はじっとりと湿った眼球であたしを舐める。ばかじゃないの。あたしだってあたしそのものではないし、いつだって単なる混ざりものでしかなかった。でもその混ざるものは自分で選択していた。いまのおまえは不適切な混ざり方をしている。怠惰で卑しく、みすぼらしい。

そうだね、と思う。そうだね。わたしは霊感を得るために他を利用しないといけない。作り直してあげるの?と尋ねてくる声に、作り直すことはできないよ、と回答する。同じものには戻れないんだよ。自傷して自傷して自傷して血を流して、そこにパンプキンパイを詰め込んでおいしく仕上げてあげる。中身はいつも違うものだ。同じおやつを詰めても、過去と同じリボンを飾っても、うまれてくるのはちがうかいぶつだけ。きのうとはちがうかいぶつがうまれるだけ。

 *

転職してライターぽいことをやっていたのだが、言われたことを諾々と書きながらホイホイ働いていたら、いつの間にかディレクターとかいう違う仕事の人になっていたので今はそういう感じの人をやっている。どうでもいい文章をあまり量産しなくていいのは助かる。
転職したらちゃんとお弁当を作る人になるよ°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°って思っていたはずなのに、ここ最近はめっきりお弁当を作っていなくていつもスーパーで買ったりファミレスに行ったりして昼食をとっている。野菜をあまり摂取できていなくて健康的でないので、なんとかしたいなあと思っている。思ってはいるけれど、思っているだけだよね。週末に作り置きをして暮らせばいいとは理解しているのだけれど、でも週末は寝ちゃうんだよね……。一日中ベッドの上でゴロゴロしてワイン飲みながら本読んでスマホでゲームして(FEHをやっているの)音楽聴いて眠くなったら寝て、という自堕落を自分に許すともう際限なくそのままでベッドから永遠に出られなくなるタイプの罠。休日はすぐに死亡していなくなってしまう。おお、休日よ、死んでしまうとは情けない。殉職した休日ちゃんを悼む間もなく、気を抜くとあっという間に平日だ。
夏場はスープを台所に放置しているとすぐに腐るので、あまりスープを煮込まない。スープを煮込むという行為を愛しているので冬場はスープを煮込んではスープジャーに入れて会社に持っていくくらいのことができるのだけれど、もうこの気温だとダメだなあ。いや、スープを煮込んだら煮込んだスープは冷蔵庫でひんやりひゃんひゃん待機させておけばいいだけの話なんだけどね。鍋ごと放り込めばいいだけなんだけど。生活は面倒くさいなあ、肉体は億劫なので、はやくソフトだけになりたいです。ごきげんよう。

憎悪を増幅させる装置としての生

ここももう墓場みたいだ。切羽詰まって書き綴りたい苦しみもない。
それは苦痛が和らいだとか憎悪が薄れたとかそういうことではなく、未だ身の内に自分であら嫌だわうふふって嘲りながら愛でて唾を吐きかけてやりたいような悪意はゾワゾワ、蠢いては喉元から隙をついて出てこようとする。舌で味わうと苦い。笑えるくらい甘い。
でもそれをある程度馴らして飼ってあげられるようになったのかな。人に伝えなくてもいいと思うようになった。これは進化ではなく怠惰だろう。繋がって分かり合うための努力を放棄するようになった。お前が五秒に一回ずつ死に続けるように祈っているだけ。

一日一個の林檎を食べるようにしている。健康でいたいからだ。一分一秒過ぎる毎に年を取って肉体が老いていくから、わたしのあらゆる機能はどんどん壊れていく。ビタミンを取ろうね。筋トレもしようね。若いだけで許されていた時期が静かに去っていくから、これからは一方的に肉体は衰えていくだけだ。健康に生きていくために、健康でなくなったら死ぬために、わたしの自由意志でこの体を操作できる期間をできるだけ長く獲得しなければ。肉体をメンテナンスする。機械のように大切に扱う。それも嫌ではない。思考さえ生きていればいい。でも思考も硬質化していくのかしらね。新しい言葉を見つけられなくなっていく。内側にあるものだけでは足りない。わたしは空疎だから。悪意で満ちる空疎。空疎だから入り込んだ悪意はその体いっぱいに満ち満ちて、全身の全てになっては舌先と指先から零れ落ちていく。お前が五秒に一回ずつ死に続けるように祈っているだけ。見たくもない死にざまを嘲笑っているだけ。

カーマイン、ストロベルー、ポピー・シグナル・コーラルレッド

五年以上前に買ったY-3の真っ赤なピンヒールがダメになっていることには薄々気がついている。FUDGEで一目惚れして渋谷の西武B館に入っているY-3に行き、実際に手に取って履いてみた。色彩の鮮やかさとフォルムの美しさと履いたときの滑らかな脚の見え方、そして同時に全力で走ることさえできる動きやすさを全て同時に成立させているところ、に惚れ惚れとしたのだった。当時のわたしの収入ではY-3はかなり高額な買い物だったので、正直諦めるために見に行ったのだけれど、実際に手に取ってしまったら一目惚れを気のせいにするどころではなく好意の裏付けをガッチリ形成することになってしまって、諦めて購入したのだった。それ以来何度も何度も何度も何度も繰り返し履いているこのヒールは、しかし、そろそろ限界だということに薄々は気がついている。
わたしは体重を右側にかけてしまう方らしく、靴は右側の方が早くすり減っていく。Y-3のヒールもそうで右側のヒールが左側よりも5mmほど多くすり減っていて、並べてみるとよく似た双子のように似ているからこそ同一ではなく差異が目につく。それだけではなく足をくまなく覆ってくれる皮の部分も内側がけばけばになってしまっていて、それはわたしが歩くときに反対側の足の内側をすりがちだからなのだけれど、だからつまりみすぼらしくなってしまっている。つま先も薄汚れていてかつての真っ赤な印象は少し濁っている。黒や灰色や茶の印象が、真っ赤だったヒールの印象を点々と汚している。
靴は履きつぶすまで履くが信条で、でもこの子はもう履きつぶしてしまっている気がするな。もう限界がきている気がするな。でもまだ履いている。本当は全く同じものがもう一足ほしい、それなのに同じものは売られていないし、似ているものもない。Y-3はこの後何回かハイヒールを出したけれど、最近はあまり見かけない気がする。あまり熱心にコレクションを見ているわけではないから、もしかしたらそんなことないのかもしれないけれど。でも少なくとも今季はない。靴の中古は嫌なのに、いっそ中古で一生懸命探そうかな、という気持ちにすらなる。大好きなんだよ。でもこんなにみすぼらしくなってしまって、ありふれた双子のように左右で違ってしまって、それなのに履き続けるのはなんだかいじめているみたい。履きつぶす、はどこまで汚れてくたびれてしまったら「履きつぶす」になるんだろう。わたしはいつまでこの子を踏みにじり続けるのかな。ていうかそろそろ一般的な大人が履く靴としてちょっとヤバい領域に達しているのではなかろうか。ヤバい。

今年の1月はあまりセールに行っていない。お金がないからだ。それこそ五年以上前にY-3のハイヒールを買ったとき、あのときよりも現在のわたしの収入は少なくって、だからそうホイホイ新しい服や靴を買うわけにはいかないってこと。でもCUNEのセールには、ライブの帰り道にふらふら寄って行っちゃった。そこで生肉をむさぼる可愛いうさぎ柄のお弁当箱を買ったのだけれど、年が明けてからまだ一度もお弁当を作っていないのであんまり役立っていないな。いや、「お弁当を作っていないのであんまり役立っていないな」なんてぼやいていないで、お弁当を作って持っていけばいいのよね。明日はお弁当をちゃんと作って持っていこう。お米と野菜とお肉が詰まっているだけの、ごく簡単なもの。

お弁当を作らないでどのように生活しているかというと、普通に外でランチを食べている。よくお世話になるのはサイゼリヤやガストなどのファミリーレストランで、ああいったところは500円でお昼ごはんが食べられるのでえらい。あとは会社の近くにあるカレー屋さんが540円でカレーを食べさせてくれるので、辛くてサラサラしたものがたべたいときはそこへ行く。ときどき新しい辛くてサラサラしたものを食べたい気持ちになって隣駅まで行って辛くてサラサラしたカレーを出すお店を開拓したりするのだけれど、結局会社の近くのカレー屋さんが一番おいしくて、他のお店に居つく結果にはなっていない。会社の近くの辛くてサラサラしたカレーは、真っ赤な色をしていて、舌に乗せるたびに複雑な香りをまき散らすところが好き。赤いハイヒールを履いて、赤いカレーを食べて、履きつぶすことの定義を考える。真っ赤なハイヒールのことを考える。

ほんとどうしようかな。子どもの頃から真っ赤な靴を履いていたので、真っ赤なハイヒールは常にあってほしいんだよね。Y-3がもう一回、あの靴だしてくれたらいいのに。全力で走れるヒール、最高なんだけどな。

美しくないことによって意味が失われること

今のiMacを購入したのはいつ頃だったかな。前の部屋に引っ越してしばらく経ったあとのような気がするから、三年ほど前のことかな。過去はすべて過去というフォルダの中にぐちゃぐちゃと詰め込まれているだけだから、その中に区分はない。一年前も、五年前も、十年前も、一秒前も、全部同じだ。全部全部同じ。それらは等しく、取り返しのつかない、もうどうしようもないものたち。
あの子を買ったのはiPhoneを購入した少し後で、そうだから、ああ、じゃあ二年くらいしか経っていないのかな?いずれにせよ過去には違いないか。そう過去に、iPhoneを購入したから、いっそiMacに買い替えてしまえばいろいろと管理が楽なんじゃないかと考えて買ったのだった。今のiPhoneを購入した理由が「その前に使用していたガラケーをなくしてしまったから」で、そのときわたしは電話帳と音楽と写真のデータの空白を目の前にして、すっかりと途方に暮れてしまったのだった。自宅のPCで簡単にバックアップできればこんなに途方に暮れなくてもよいはずで、だからもうiMacにしようかなと思ったのだった。
でも一番の理由はそれじゃないな。一番の理由は、やっぱりフォントかな。ビッグカメラのパソコン売り場で、整然と並んで、歩くわたしの視界を連続して素通りするたくさんのディスプレイの中で、彼らが一番、フォントが美しかったから。その画面で見る文字は滑らかに美しく、見るたびに感動を覚える形状をしていて、結局はそれが一番の決め手だった。文字が美しければあとはほとんどのことがどうでもいい。文字が美しいだけでそのディスプレイには価値がある。
フォントが美しくないと仕事をする気にならないな。汚いフォントを見ていると苛々する。文章を読む気にならない。それは文字ではなく汚い絵だ。そのように認識するんだ。醜い形に止め置かれて、それ以上変化することもできず、固定されてしまって、取り返しがつかない。言葉として意味を受け取ることができない。美しくないから。美しくないという理由で。文字が言葉になれない。じぐざぐしたみっともないフォントは、完治したあとも引き攣った形で残り続ける傷跡のようで悲しい。ばかばかしい。

最近めっきり観たものの感想を書いていないから、たまには書いとく。

20161210 sat マームトジプシー「ロミオとジュリエット」@東京芸術劇場
素晴らしかった。最終場面から小刻みに、同じシーンを何度も反復しつつ小刻みに、時間を巻き戻しながら物語が展開していく構成が美しかった。
シェイクスピアの仰々しい台詞、日常では決して用いない言葉が、言葉の意味以上に舞台装置として機能していた。形容詞が多く実態に乏しい、しかし美しい台詞たちが絶え間なく繰り返され続けて、その繰り返され続ける虚ろな言葉たちを反芻することによって舞台上の出来事はどんどん条件付けされていく。始めから終わりまで何度も何度も反復される、「夕べ夢をみた」「わたしもみた」「どんな夢?」「夢をみるやつは、嘘をつくっていう夢」という一連の台詞たちが、条件付けが重ねられてゆくたびに、どんどん質量を増して重く重くなってゆくさまが印象的だった。
ロミオ役は青柳いづみ、それが本当に素晴らしくって。硬質で透き通った声、常にどこか憂いが滲む瞼!こんな役者他にいないなあ、としみじみと思わされる。

そう、ロミオ役は青柳いづみで、衣装も普通に女性のもの。でも別に「女性と女性の物語」的な印象は受けなかったし、わたしは単なる記号とトーンの問題だと思っていたので、そういう見方があることにびっくりした。もし「女性と女性、禁断!」的な意図があっての改変ならちょー笑ってそのあとにがっかりしてしまうので、事前情報なしに見て受けた「音と質感を記号的に統一したんだね」という自分の印象をそのまま大切にしておこうと思います。

小道具も大道具も衣装も音楽も、本当に素晴らしくてとっても満足。ただ、付け加えられた要素である「きよちゃん(ひよちゃん?)」は蛇足だなと思った。あそこだけ舞台上に演出家の顔と声と自意識が透けてみえて、作品として美しくない。そういう役割なのかもしれないけれど。




20161213tue THE LOST BOYS PRESENTS INTO IT. OVER IT. JAPAN 2016@WWW X

toeが本当に楽しくって、でもそれよりなにより、WWW Xの音響の素晴らしさにびっくりした。WWWもそこそこいいけど、あそこはフロアのどの位置で聴くかによってバランスめちゃ変わるから、あんまり好きじゃなくって。でもWWW Xはよかったなあ。
都内中箱の音響最強はリキッドだと思っているのだけれど、ちょっと揺らいだかな。印象としては、ハイもロウもクリアに出る感じ、わりとパッキリしていて音の分離性がいい、解像度が高い印象。硬め。最近あんまりリキッド行ってないから(今年の2月が最後かな?)今度リキッド行ったらまた感想変わるかもしれないけど、ミドルはリキッドの方が強いのかなあ?とか思いながら聴いてた。久しぶりにリキッド行きたいなあ。カウントダウン行こうかな。

初見のIIOIはメロディアスでシンプルなエモっぽいバンドで、聴いていて気持ちよかった。いい意味で展開がベタで、「次はこうくるかな?こうくるんでしょ?ほらきた!」みたいなノリやすさがあって楽しかったよ。でも、聴いていて気持ちよかった以上の感想にはならなかったかな。演奏面も特筆すべき箇所はあんましなくって、驚きや発見からくる興奮もあんましなかった。数曲聴いて満足したので、MCの途中で外に出て、空腹を癒すために焼き鳥屋さんへとおもむき、思うがままに焼き鳥をたべた。おいしかった。Kさんと一緒に行って、お互いに「23時には帰ろう!」とか言ってたのに、結局電車に乗ったの24時近くだった。どうして今日は金曜日じゃないのかな…とか呪いの言葉を垂れ流しながら帰宅して、寝た。よい日でした。

で、WWW Xってなんて読むの?ワロスエックス?

あたらしいくすり

悲しくなったり苛立ったりやりきれなくなったりしたときばかりに日記を書くから必然的に日記は暗くなるのだけれど、別に日々日々日々日々悲しいわけではない。さみしいな、とか、かなしいな、とか、腹立たしいな、とか、そういった感情たちは確かにいつでも腹の中に住んでいていなくなることはない、あの子たちの存在をわたしはいつだって感じている、生涯を共にする伴侶、でもあの子たちは騒ぎ立てて自己主張をたくさんするタイプの子でもないの。
だから最近の懸念事項はそういった内的なものではなくって、自転車のチェーンとブレーキのこと。そろそろチェーンは交換した方がいいし、ブレーキも調整した方がいい、でも近くにいい自転車屋さんがないんだよね。以前利用していた自転車屋さんは今の家の近くには店舗がないし、どうしようかな。自分でやってみようかなと思ったけれど、冬だし寒いから嫌だなあ。できればお店にお任せしたい。最近の悩みはそれくらいかな。

グレッグ・レイクが死んじゃったみたいで、今年はキース・エマーソンも死んじゃったから、あーあ、といった感じ。年を重ねて年を重ねて年を重ねてゆくごとに、どんどん好きなミュージシャンが死んでゆくようになっちゃうんだろうなあ。もちろん進行形で、若手のミュージシャンもどんどん好きになってゆくから、老いた人たちがぺろぺろ死んじゃってもこの世から好きなミュージシャンが全ていなくなってしまうなんてことはない。でも死んでしまっても音楽は残るから、好きなものは総量を喪わずにただ堆積していって音色の記憶が重い。わたしは記憶力が乏しくっていつだってなんだってすぐに忘れてしまう、でも具体的な事象が消えてしまっても、印象は残る。印象だけが遺る。音楽を聴いて動いた心のことを覚えている。今はもうその動きに同期できなくなっていても、かつて描いたその軌跡を思い返してなぞることはできる。かつてあった情動を思い返す。遠く懐かしむ。薬物中毒患者のように、より強い刺激を求めようとして、また知らない音色を探す。それに手を伸ばす。聴いたことがない音楽を探しながら、もっと遠い所へ行きたい。もっと遠いところへ行きたい。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。